業田良家はやはり強情張りの職人肌か

5月5日、業田良家著 『男の操』 (小学館) を読む。本作は13年に『機械仕掛けの愛』で手塚治虫文化賞を受賞した著者が03年より『ビッグコミック』に連載し06年に単行本化されたものを再編集した改訂版58年生まれの著者、業田良家は23歳で漫画家デビューし、25歳で『自虐の詩』がヒット。55歳で手塚治虫文化賞とプロフィールの上では申し分のないエリートコースだと今気づく。それほどに派手さとは縁のないいぶし銀のような隠れた名医なのだ。本作、『男の操』の主人公は売れない演歌歌手、五木みさお。着流し姿の似合うでっぷりした体型にぱっちり目の童顔。名前は出てこないがこんな風貌の若手演歌歌手がいたような。映像化をもくろんで当て描きしているのかもしれない。そういうところはキャリア相応にいやらしい。業田良家という漫画家の弱点は急な展開を説明的台詞でうめ過ぎて余計に空々しくなるところ。ならばいっそオペラチックに歌いたいのか96年発表の『詩人ケン』も95年の『歌男』も詩歌に人生を投じる主人公が登場する。本作の主人公、五木みさおは与えられた歌を歌うだけの歌手である。が、キャンペーン中の『男の操』がじわじわ売れ始めたある時、営業先の店頭ライブで歌詞とメロディーを即興でアレンジしてしまう。「すみません。自分の気持ちに合うように少しずつ変えていったらこうなってしまいました」とこぼす主人公同様に本作の連載スタイルも一頁完結のショートギャグ形式からストーリー形式に変わる。全体の半分以上も続けた形を変えさせたのは恐らく主人公自身だ。キャラクターが勝手にストーリーを転がしてくれるのを待っていた業田良家はやはり強情張りの職人肌か。「苦節十数年、これほど努力した人を私は知りません。亡くなった妻との約束、残された娘との約束、約束を果たすために、このステージへ階段を登ってきました。本年度CDレコード大賞受賞・・・『男の操』の五木みさおさんです!!」と司会者に送り出され念願の紅白のステージに立つみさおの晴れ姿にはついこちらも熱いものがこみ上げてくる。「瞬間と永遠は、きっと同じものでできてるよ」と亡き妻の残した言葉の意味が分かるような。瞬間とは泣き笑いに満ちた日々の過程であり永遠とはそれらを完結させる決定的な出来事だろう。その出来事が死か栄光かはたどり着いてみなければ分からないが安易に立ち止まってしまえばそれまでである。来年還暦を迎える漫画家、業田良家はもはや誰はばかることなく大御所だが歌い続けてきたのは只一つの歌だったよう

その辺の大友チルドレンより一皮も

2月25日、うめざわしゅん 著『うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下』(太田出版)を読む。″不世出の天才、うめざわしゅん。2001年〜 2015年にわたる傑作読み切りを9編収録″と記された帯文には漫画界のみならずカンパニー松尾末井昭高橋源一郎など錚々たる顔ぶれが賛辞を寄せており、この漫画家の名前すら知らなかった私も表紙絵だけでいかにも刺激的な内容を期待してしまった。その期待は決して裏切られなかったのだが。78年生まれの著書が01年に23歳で発表した収録作品『学級崩壊』をリアルタイムで読んでいたら不世出の天才に果たして気づいただろうか。『学級崩壊』は大友克洋の『童夢』 の俗悪学園ドラマ版といった内容で作画も収録作品中最もラフな走り書き風。8ミリ映画青年がわざとカメラをブンブン振り回して天変地異をフィルムに焼き付けたつもりになっているような感。であるが01年にして大友漫画にやられてそんなつもりになっている23歳にひとまずゴーサインを出した当時の編集者は今頃鼻が高いのでは。その後の15年間に作画も構成も倍々でレベルアップした上に詩情あふれる台詞も深味を増し続けているのだから。表題作の『パンティストッキングのような空の下』には確か三上寛の歌詞にそんなものがあったかと66年生まれの私がようやく思い出すくらいに著書の老け趣味というか古典主義は重厚。後書きによれば好きな作家は福田恆存というから今現在著書とディスカッションしなければならない若い編集者には難敵かと。『渡辺くんのいる風景』の中で街のゴロツキに成長していた幼なじみの渡辺くんが主人公の無色透明な売笑婦に語る台詞がよい。「でもな それは ちゃうんや 言葉なんて ただのインチキ手品や」「言葉なんてな 犬がムリヤリ 着せられとる服 みたいなもんや」「なんぼ しゃべくっても 誰とも繋がらへんで」には70年代のATG映画を観ているようなトリップ感覚があるが決して「悪酔い」はしない。私が復活日活ロマンポルノにまだ後ずさりしているのはどうも「悪酔い」が心配されるからである。その辺の貧困カップルの交わす愚痴と性愛にきょう日金を払ってしまっては己の往生際の悪さに涙も出ないからである。うめざわしゅんの描く行き場のない男女の対話には言葉のもどかしさから頭ひとつでも抜きん出ようとする健気な逞しさがある。その辺の大友チルドレンより一皮も二皮も剥けてしまった感の「不世出の天才、うめざわしゅん」に今ようやく私も出会った。

その辺の大友チルドレンより一皮も

2月25日、うめざわしゅん 著『うめざわしゅん作品集成 パンティストッキングのような空の下』(太田出版)を読む。″不世出の天才、うめざわしゅん。2001年〜 2015年にわたる傑作読み切りを9編収録″と記された帯文には漫画界のみならずカンパニー松尾末井昭高橋源一郎など錚々たる顔ぶれが賛辞を寄せており、この漫画家の名前すら知らなかった私も表紙絵だけでいかにも刺激的な内容を期待してしまった。その期待は決して裏切られなかったのだが。78年生まれの著書が01年に23歳で発表した収録作品『学級崩壊』をリアルタイムで読んでいたら不世出の天才に果たして気づいただろうか。『学級崩壊』は大友克洋の『童夢』 の俗悪学園ドラマ版といった内容で作画も収録作品中最もラフな走り書き風。8ミリ映画青年がわざとカメラをブンブン振り回して天変地異をフィルムに焼き付けたつもりになっているような感。であるが01年にして大友漫画にやられてそんなつもりになっている23歳にひとまずゴーサインを出した当時の編集者は今頃鼻が高いのでは。その後の15年間に作画も構成も倍々でレベルアップした上に詩情あふれる台詞も深味を増し続けているのだから。表題作の『パンティストッキングのような空の下』には確か三上寛の歌詞にそんなものがあったかと66年生まれの私がようやく思い出すくらいに著書の老け趣味というか古典主義は重厚。後書きによれば好きな作家は福田恆存というから今現在著書とディスカッションしなければならない若い編集者には難敵かと。『渡辺くんのいる風景』の中で街のゴロツキに成長していた幼なじみの渡辺くんが主人公の無色透明な売笑婦に語る台詞がよい。「でもな それは ちゃうんや 言葉なんて ただのインチキ手品や」「言葉なんてな 犬がムリヤリ 着せられとる服 みたいなもんや」「なんぼ しゃべくっても 誰とも繋がらへんで」には70年代のATG映画を観ているようなトリップ感覚があるが決して「悪酔い」はしない。私が復活日活ロマンポルノにまだ後ずさりしているのはどうも「悪酔い」が心配されるからである。その辺の貧困カップルの交わす愚痴と性愛にきょう日金を払ってしまっては己の往生際の悪さに涙も出ないからである。うめざわしゅんの描く行き場のない男女の対話には言葉のもどかしさから頭ひとつでも抜きん出ようとする健気な逞しさがある。その辺の大友チルドレンより一皮も二皮も剥けてしまった感の「不世出の天才、うめざわしゅん」に今ようやく私も出会った。

そもそも勝ち馬には乗らない気質の

2月18日、三田完 著『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』(文藝春秋 ) を読む。本書は作詞家、阿久悠をアシストしてきたオフィス・トゥ・ワン所属の作家、三田完による阿久悠日記の解読書。累計七千万枚のレコード売り上げを持つ作詞家の日記ゆえに本書はそのまま阿久悠のサクセスストーリーにもなる。であるが阿久悠自身が生前よりそうした阿久悠物語を自ら著書に残している。『夢を食った男たち』(文春文庫)、『生きっぱなしの記』(日本経済新聞社)などのそうした著書を阿久悠が何故エピソードを重複させても世に送り出したのか。恐らくは没後にあることないこと捏造された阿久悠物語が流通することなど断じてゆるせなかったからだろう。事実その類いのものは今日まで現れていない。では永年相棒を務めた三田完は本書で何をやろうとしているのか。「阿久悠日記の研究は、まだ緒についたばかりである。これから先、日記を手がかりに、ヒットメーカーとしての阿久悠、文芸家としての阿久悠、人間としての阿久悠が、さまざまな方たちの手で立体的に解き明かされていくだろう」とあとがきにあるように大作家の足跡をたどるための重要なテキストとして阿久悠日誌を呈示しておきたいというのが真意のよう。80年代初めから村上春樹に注目していたり最晩年の病室のベッドで吉本の芸人に罰ゲームでもみしだかれる悪夢を見るなど先見の明を感じる側面もある。が、私にはやりたい放題のヒットメーカーがあえてやらず終いだったことの方が気になる。『スター誕生』の顔役でありながら山口百恵に詞を書かなかったこともそのひとつ。本書で明かされるその裏事情は番組の中で阿久悠が彼女なら今すぐ使えるというニュアンスで「ドラマの妹役ならなれる」と発言したのを妹役程度の女優でしかないと受け取った山口百恵が傷つき腹を立てた一件もその要因と説明される。ホリプロ側に同じ身内の森昌子をスターにした阿久悠とは別の作詞家でという意向があったのは事実でもそれ以上に因縁めいたものを感じなくもない。「山口百恵原節子の隠し子であるという仮説で何が書けるだろうか」などと突拍子もないことを引退後の80年代半ばに記しているのも気になる。そもそも勝ち馬には乗らない気質の作家なのだとも思う。低迷期のジョニー大倉と組んだり西田敏行を紅白歌手に押し上げたりと一発逆転に賭ける姿勢は小気味よい。ならば不機嫌な作詞家、阿久悠にとって美空ひばり山口百恵だけは何故に最後までジョーカーだったのかが私には気になるのだ。

なんちゃあない話を悪く思わないで

2月10日、安倍夜郎 著『なんちゃあない話 』を読む。本書は人気コミック 『深夜食堂』の作者、安倍夜郎が故郷である高知県幡多郡のフリーペーパーに連載していた東京発地域密着エッセイ。41歳でデビューしてヒット作をものにした現在、ともに壮年期に差しかかる同窓生たちへの近況報告といった内容。独特のほっこりした語り口は『深夜食堂』同様に味わい深い。巻頭のおまけ漫画に描かれているように作者はCM制作会社に19年勤めたのち小学館新人コミック大賞を受賞し漫画家人生をスタートさせる。会社員としてはあまり優秀ではなく消耗しきってからの再出発である。その複雑でやるせない感情が 『深夜食堂』を生んだように私には思える。「人生は思うようにいかないものである 」 「だからボクは自分の漫画の中では、ちょっとだけ思うようになるようなお話を描いている」という本文中の告白にもうなづける。 『深夜食堂』における結果オーライな人生観を許し合うたまたま集った他人同士の輪は暖かい。暖かいが、一歩踏み誤るとたちまち醜い傷つけ合いになりかねない微妙なバランスの輪である。都会で成功した作者から 「また正月帰るけん、飲みましょう」とエールを送られても笑顔で迎える余裕のない同窓生もいることだろう。 『なんちゃあない話 』を悪く思わないでほしい作者の願いは届くだろうか。ところで巻末のおまけ対談にはコラムニストの堀井憲一郎が登場する。早稲田漫研の先輩にあたるホリケンは忘れた頃に一発当てた後輩の安倍夜郎に容赦しない。会社を辞めて漫画修行を始めつつも漫研出身のプロ漫画家たちを頼らずというか頼れずくすぶっていたという作者に対し 「すさまじく呑気だ。漫画家と名乗ってはいるものの、それはフリーターだろ、いや、フリーターでさえなくて、一種のニートみたいなもんじゃないか」と本当のことを言う。よく生活できたなと感心するホリケンに対し「堀井さんは学生のときからそうでしたけど、稼いで使う人でしょ」と返す作者はバブルの波に乗って世にでたホリケンをあまりリスペクトしてなさそう。対談の中でホリケンの実家が裕福なことも女友達をめぐるいざこざから自宅に消火器を撒かれた屈辱も暴露する作者はなかなか強い。いや、強くなったのだ。滝田ゆうに影響されたという安倍漫画の作風はともすれば救いようもなく時代遅れである。が、ヒットした今ではおしゃれですらあるように見える。かがやきは後からやってくるのだ。まだまだキラキラと眩しい安倍漫画の今後の展開が楽しみに。

本作はいまおかしんじ版あまちゃん

1 月31日、上野オークラにて『感じるつちんこ ヤリ放題!』(OP映画)を観る。監督、いまおかしんじ。本作は今やピンク映画の巨匠になりつつあるいまおかしんじの最新作。ヒロイン園子役に涼川絢音を迎えて不可思議な下町人情グランギニョールを展開する。主人公、園子は夫とハイキング中につちんこの襲撃に遭う。つちんことは古来より学術的研究が進められるヘビに似た未確認生物。園子はその研究家にたぶらかされたり夫の浮気相手だった女子高生に生オシッコ代百万円を要求されたりしたあげく連れ出しスナックで働くハメに。そこで知り合った男性客の良男もまた怪しい。「ぼく、50年前に一度死んでるんです」とオタク男の友達募集のような戯言を真顔で語る良男役の男優はどこか若き日の尾美としのりに似ている。かと思えば女子高生役の月本愛は有村架純に似ているし、そもそもヒロインの園子からし能年玲奈に似せているよう。本作はいまおかしんじ版『あまちゃん』なのだ。『あまちゃん』は震災を正面から描きつつも原発事故に対してはまるっきりスルーしたという批評もあったが。私はその部分も橋本愛の家庭を通して描かれていたと思う。あれ程の田舎町で隣近所にお構いなく自分のところだけクロワッサン流の衣食住を楽しんでいるのはすなわち原発村である。そうした庭にもまた複雑な悩みがあってというクドカンの切り口に対し本作のいまおか監督は。放射能で巨大化したらしいトカゲのおっさんの様な半獣半人のつちんこが登場しヒロインと格闘する。なんとなく『ウルトラファイト』や『クレクレタコラ』を思い出す脱力怪獣コントになだれ込むくだりにOP映画独特のどうしようもない至福感が。ロビーにも客席にもさすが上野オークラといった感のモノホンの男娼が徘徊すれば映像学院生らしき若者もいる。もちろんサラリーマンも労務者もこの場を根城にした老人会も皆昼の日中に成人映画を楽しみにやってきている。このどうしようもない至福感に満ちた世界を壊したくないとまでは思わないが。思わないが残せる限りは残しておきたい。と、並映された旧作『いくつになってもやりたい男と女』における65歳の主演コンビの爆笑物の艶技に思った。本作 『感じるつちんこ ヤリ放題 !』によってまた一歩ピンクの巨匠に近づいたいまおか監督は同時にまた一歩世界の檜舞台から遠のいた感。他人事ながらもその職人魂に一票を投じたく遅まきながらもよいお年を。

本作がセールス的に急上昇していたら

11月19日、小沢健二『球体の奏でる音楽』(東芝EMI)を聴く。佐々木敦の『ニッポンの音楽』の後半「渋谷系の物語」の章を読み、96年に小沢健二が同じ東芝EMIの浅川マキのバックを務める渋谷毅と川端民生をゲストにジャズアレンジのミニアルバムを発表していたことを今頃知って。本作を置き土産にオザケンはリューイチ・サカモトのようなコスモポリタンな音楽家になるべくNYに旅立ったのだと私は勝手に考えていた。昨今のオザケンには結局のところミュージシャンに行き詰まったからアクティビストにシフトチェンジしたのではないのか。山本コウタローみたいなものではないのかとも考えていた。本作には浅川マキの音楽のような重厚な漂泊感はなく軽やかな日帰りピクニックといった感。同じレコード会社の言わばドル箱歌手なのだから協力すれば自分たちの次回作にも充分な制作費が下りるはずとゲスト陣が考えたかどうかはわからない。が、映画『セッション』に登場する米国屈指の名門ジャズ音楽院の超スパルタ教育ぶりと血で血を洗うポジション争いに触れて私はオザケンの音楽武者修行が一般には公表できないほど凄惨なものだったのではと今頃気づく。本作におけるジャズとは新卒OLの朝のBGMにもなり得る味わいまろやかな今でいう和ジャズ。だが当時はセールス的に落ち込んだそう。自分たちの次回作に充分な制作費を期待したかもしれないゲスト陣の心中を察す。「私の周りにはいつもいい男たちが居てくれて」とステージ上で浅川マキに紹介されるときの渋谷毅と川端民生のはにかんだ表情は素敵なものだったが。本作がセールス的に急上昇していたら早過ぎた和ジャズはこの時点で目を覚ましていたのかも。そうなればこの面々で大人って感じのオザケンがツアーやプロモに走り回っていたのかも。と、夢想する私はあまり素敵な気持ちでもない。往年の浅川マキの年越しライブに池畑潤二が現れたとき私はうぉうと拳を固めたがもしその流れでオザケンがステージにひょっこり現れたなら私はニッポンの音楽の大人の事情にげんなりしていたのかも。これでよかったんだこれでと本作は今の私の朝のBGMになった。trk5『すぐに会えるかな?』の一節「ああ、子供だって出来るかも?」の子供とは浅川マキと小沢健二の間に誕生していたのかもしれない新しい音楽のことだったのでは。と、夢想する私はあまり素敵な気持ちでもない。が、オザケンて結構な不良少年どころか極道息子だかと今頃気づいて。