こうした節倹精神はデビュー当時から

1月20日eastern youth 『SONG ento JIYU』(裸足の音楽社)を聴く。昨年これは間違いなしとショップで手に取るも何故か聴き逃していた本作。音楽誌等の年間ベストにはほぼ見かけずもしや残念賞と疑いつつ。イースタンユースにはまだ辛うじて紅白出場叶うほどの小ヒットもなければ家に帰ればセキスイハウスのCMソングでお馴染みといった知名度もない。そうした立ち位置に余り遠くないようなまったく正反対にあるような。何が引っかかるかと言えばやはりプロテストする、物申すアーティストである姿勢を変えない点か。本作で最もプロテストしている『同調回路』の「価値観の共有の枠を越え 押し付けられる伝統と文化 そんなもの俺には要らない」、「俺は同調しない」というくだりに登場する伝統と文化とは何か。例えばおもてなしとクールジャパンの今後の行方についてあんなものはハロウィンやロッキーホラーショー愛好会みたいなもので楽しんでるんだから邪魔しちゃ悪いかと私は思う。が、楽しんでるだけのパーティ民族が庭先に玄関に侵入しようと両手を広げて笑っていられるかとも。大病した後も相変わらず修行僧のような吉野寿のボイスに新メンバー、村岡ゆかのコーラスが加わるとより宗教的ムードが増した感に。本作の歌詞カードというよりスノッブ古書店のレジ脇にある豆詩集のような小冊子にはイースタンユース 吉野寿、田森篤哉、村岡ゆか、とクレジットが。90年代組のアーティスト名にカタカナ表記が多いのは恐らく彼等が思春期だった85年、日航機墜落事故の報道でカタカナ表記の乗客名簿を見た際に命の儚さ、尊厳の有無に直面した影響からでは。その後の若者の流行は軍用ジャンパーに鑑札タグを下げてみたり、商品バーコードを刺青してみたり表面的には尊厳と自由を軽視する。が、その割に口をついて出る言葉は「天下取り」や「一般民」など極端に自分の立場のみを守りたがる傾向にあったよう。そうした90年代の若者たちの多くが行き止まりの四十路にあって辛うじて生き延びているイースタンユースが掲げる旗はあえてお子様ランチ仕様。そんな印象のデザイン。こうした節倹精神はデビュー当時からあったよう。優雅な赤貧ぶりはモダニズム文学の流れを汲んでいる風で私などそこに惹かれ筈なのだ。が、これは間違いなしといったん手に取るも保留に至った私と同じ慎重な反応がバンド周辺に今もあるのでは。その辺りいずれ「極東最前線」の現場で確かめようかと。現場は未経験なので。

笑わば笑えといった経済事情の中で

1月17日、『円谷プロ特撮ドラマDVDコレクション50号』(ディアゴスティーニ)より『怪奇大作戦 第22話 果てしなき暴走』を観る。脚本、市川森一。『怪奇大作戦』は68年、TBSで放映された“科学を悪用して犯罪をおかす者と正義と科学を守る者との対決を描く怪奇犯罪ドラマである”が、当時人気の海外ドラマ『スパイ大作戦』や『宇宙大作戦/スタートレック』のような作品を国内で半分の時間尺と比較にならない低予算で作り上げた壮絶なカルト番組。本作の市川森一脚本には謎のスポーツカーが撒き散らす特殊ガスで後続車の運転手が錯乱状態になり事故を起こすがスポーツカーの持ち主のアイドル歌手はシロ、スポーツカーの整備士はクロに近いシロ。真犯人は行方知れず。あえて言うなら現代の車社会そのものが真犯人ではという一応の筋書きはある。が、それらは『怪奇大作戦大全』(双葉社)の作品解説を今読んで初めて気づかされること。本編を繰り返し観るにつけ感じるこの人たち一体何をしてるのかという疑問はシリーズ全編にも。68年、東芝よりデビューしたジャックスの印象について中村とうようが「新しさということで言えばまさに最先端だった。しかも、アイデアが演奏力を超えていて、やりたいことが充分こなせないモドカシサが丸見え」(レコード・コレクターズ 94年11月号)と評しているがまさしくそこに通じる感が。科学捜査研究所、SRIの本部に集まるメンバーたちの吐く息は白い。当時のスタジオはそれほど寒かったのだろう。暖房すらままならないスタジオでハイウェイを走行中の車から遠隔操作で運転手を緊急脱出させてパラシュートで無事一命をとりとめる様子をレーダー画面で見守る演技をしているSRIのメンバーたち。笑わば笑えといった経済事情の中で最先端の科学で悪を討つ怪奇犯罪ドラマを作り上げたその心意気。まるで藁と材木で作った対空砲と戦闘機のような手作り手弁当の悪戦苦闘ぶりは近年『野火』で塚本晋也監督が見せた段ボール製の装甲車の活躍を思わせる。心意気だけは受け止めたい健気さが『怪奇大作』にもジャックスにも塚本版『野火』にもあるのだ。そこで演じられる野蛮は途上国の大道芸人が頼みもしないのに目の前で顔面に針を刺してみせる姿勢とはほんの少しだが違う。本作『果てしなき暴走』における笑わば笑えという姿勢はあくまでポーズなのだ。笑わせる余裕などないのが実情だったとしてもまだ何者かに屈しきるまいという意地というかやはり心意気が。

歴史の上では『解体新書』といえば

1月13日、みなもと太郎 著『風雲児たち蘭学革命篇』(リイド社)を読む。本書はNHKの正月時代劇として三谷幸喜脚本でドラマ化されたばかり。みなもと太郎による原作漫画は40年近くも連載されている超大作だが。本書は三谷脚本がつまんだ蘭学者前野良沢杉田玄白蘭語(オランダ語 ) の解剖書、『解体新書』の翻訳本を刊行するまでの顛末を再編集したもの。ドラマでは原作に登場する更なる風雲児たちも通りすがりに続々と略歴付きでご紹介までといった展開に。興味のある向きは全29巻、以下続刊の原作漫画を紐解いてみてはということか。歴史の上では『解体新書』といえば杉田玄白と伝えられているも実質的なリーダーは前野良沢であり刊行直前に感情のもつれから降板した良沢の側から見た蘭学事始めというのが本書の視点。歴史好きがよく肩入れしたがる年表からこぼれた幻の天下人ものというのか。みなもと太郎の単行本が今この時代の大型書店に平積みされている歴史的事実にずっこけた昭和40年代男は少なくなかったのでは。本書に収められた作品が発表されたのは80年代初頭。楽屋落ちギャグに登場するタモリアゴ&キンゾーいがらしみきおといった名前には時代を感ず。特にタモリは"日本史上最大の奇才"である平賀源内の再来のように描かれている。みなもと太郎タモリに当時何か接点があったのかどうか。タモリの無名時代からの相談役といえば赤塚不二夫ビートたけしの無名時代からの相談役といえば高信太郎。当時のみなもと太郎がじゃあ俺もタモリと言いたいところだけどアゴ&キンゾーでと考えていたかどうか。歴史を逆読みさせてもらえば当時のアゴ&キンゾーに目をかけるのは現在のは現在のネルソンズに目をかけるようなものかと。只、いがらしみきおにこの時点で目をかけるのは後にギャグ漫画界の闇将軍のような立ち位置に至る著者らしいというか。本書の後半で良沢が翻訳原稿を国士である通訳者に国内最高水準と認められるも自分の蘭学なぞカスみたいなもの、それで日本一ならこの国の実力とは一体という憤りは恐らくみなもと太郎の胸の奥にも三谷幸喜の胸の奥にもあるはず。80年代半ば、カンヌでグランプリを競い合った『楢山節孝』と『戦場のメリークリスマス』のどちらが日本アカデミー賞を手にするのかと本気で苦悶する日本人が一人でもいたか。いたらどうかしてると今現在『陽暉楼』という作品の前で両手を合わせ涙する日本人が一人でもいるか。いたらどうかしてる。絶対にどうかしてる。

本作にはまさしくあの頃の空気が

11月4日、『夏の終り』(12年 クロックワークス)をDVDで観る。公開時に劇場で観たがその時は何度でも繰り返し観直したい作品だとはあまり。ところが今になって本作を何度も繰り返し観たくなった。パンフレットの表紙裏には2012年『夏の終り』制作委員会とある。私は本作が2011年に撮られたものと思い込んでいた。本作に映っているのが確かに2011年のこの国の夏だった。と、すればパンフの中で主演の満島ひかりが語る撮影中に心神喪失し突然泣き出したり笑い出したりしたエピソードも納得できるような。テレビもラジオもようやく通常番組に戻ったものの都心でもまだ結構な余震が続いてたあの頃。いつものようにお昼のバラエティで食レポを敢行するタレントらの表情は固く汗ばんでいたような。全体こんなことしてる場合なんだろかという混乱がこの国のどこで何をしてる人の心にも少なからずあったあの頃。本作にはまさしくあの頃の空気がつまっているのでは。と、思いツタヤのワゴンセールで入手したDVDを今一度穴の開くほど見続けたくなったのだが。パンフの発行日のクレジットはよく読むと2013年8月31日とある。DVDの発売日が2014年3月なので本作は2012年に撮って2013年に公開したのではなかったか。本作に映っているのはあの頃から一年経った夏の終りなのだった。それでも何やら語りかけては口をつぐむように人物同士のたわいないやりとりが次次闇に吸い込まれる演出には時代の空気があるよう。本作の後半で不倫のスリルにも互いの身の振りにも疲れ始めた満島ひかり演じる主人公と綾野剛演じる若い恋人が逢引き先でぐったりもたれ合う姿が印象的。そのぐったりした様子はまるで『ゾンビ』の後半で一組の若夫婦が生き延びることの意味も見失いかけたままひとつのベッドでぐったりと放心する姿に重なるよう。小林薫演じる主人公の情人の老作家は懐深い伊達男のようで只の駄目親父のようでもある。ここ数年に渡り小林薫という俳優が得意とする人物像だが。NHKドラマ『カーネーション』での演技は晩年の殿山泰司のようで痛快だったが本作では得意な筈の駄目親父役にも疲れ始めている感。遊んでばかりもいられないと無理に引き受けたエロ小説の仕事が所詮自分の手に負える分野ではないと泣き崩れる場面は象徴的。「もう居場所がないんだあ」と泣き叫びたい混乱はあの頃多くの人々の胸の奥にも同様に燻っていた気もする。脚本の宇治田隆史が捻り出したこの一行に2011年のこの国の空気は凝縮されていると感ず。

20年ぶりに触れたこの最新作と

11月3日、BRAHMANの『今夜/ナミノウタゲ』(17年 トイズファクトリー)を聴く。96年に結成し現在も活動を続けているBRAHMANの音楽に私が初めて触れたのは世にマキシシングルなるものが出回った頃。既に三十面下げてレンタル店でアルバイトをしていた私の周囲で学生らがこれはカッコイイと騒いでいたその見本盤をそっとチエックしたところがBRAHMANのメジャー進出作だった。なるほど悪くないと思ったにも拘わらず私はその後BRAHMANの音楽から離れた。と、いうよりどこまで本気かわからない宗教的なビジュアルとアフガンゲリラのような出で立ちに引いた。現在私の住む街にも都会のスクランブル交差点にある巨大画面で最新音楽チャートを紹介する一角がある。その中に最近BRAHMANの姿を見つけた時は少し驚いた。何やらうさん臭い印象は残しつつも全国区入りしてしまった彼等の持久力に心の坊主刈りを差し出す思いで本作を購入。20年ぶりに触れたこの最新作とこちらはレンタルさせてもらった過去作の編集盤を聴いてみてもいきなり感嘆できるわけもない。が、「涙を流す前に 眠ったふりをした」という『今夜』の冒頭には初めて自分で自分を誉めてやりたい心持ちなのかと思える熱と重量が。曲調はこれまでの民族音楽を重工業的に再加工した独自の登録商標を一端外した歌謡ロッカバラード。これがまた泣けると彼等の音楽にそれほど付き合ってこなかった私にもしんみりする。私にはそのスポーツに全く関心がなくとも表彰式や引退式で選手が応援ありがとうございましたと涙声で観客に手を振る場面で図々しくもボロ泣きできる特異体質がある。本作を聴いてひとまず乾杯してる自分の変り身の早さこそが何よりうさん臭いのではとも思う。「やっぱりビリでも一番、ネガティブだけど前向きにっていうね」と結成間もないまだ新鮮だった筈の音楽誌の取材に応じるメンバーのあどけない顔はまだ何をも恐れぬ悪童のよう。「胸を張って 上を向いて 歩いて来れたなら たぶん俺ら 出逢ってないよ 誰かがヒソヒソ言ってた」という『今夜』の一節には人に言えない不義理や裏切りを経験したことも否定しない大人の顔をした現在が。そのプロセスこそが大事なのはわかっているのにそこは見たがらないこの私の小心。たとえば宗教学者が信者に寄りそって何か扇動したら終わりであって、などと自分に言い訳したつもりになってみてもやはりビリでも一番の持久力が生んだ結果を私は否定できない。

橋本治もすっかりオールドボーイか

10月20日橋本治 著『バカになったか、日本人』(集英社文庫) を読む。本書は作家、橋本治が2011年から2014年まで主に『週刊プレイボーイ』誌上に発表した時事コラムを再編集したもの。週プレの論客といえばプロレスで言うマット界の裏を知り尽くした人物のようにメインステージに少しの義理を売って舞台袖からきわどい野次を飛ばすオールドボーイといった感が。橋本治もすっかりオールドボーイかなどと感慨にふける自分もまた古い人間か。だが古い人間は新しい人間がこんな事態は初めてだと混乱する様をよそにこんなものは昔からあるのだと説く知恵がある。経験値というやつだが近年では健康不安も抱えた著者がそれでも伝えておきたい″この国の未来を憂うすべての人へおくる辛口の処方箋″の効き目やいかに。本書の冒頭には95年の阪神淡路大震災の復興はバブルの余力で都市計画の一環のごとく素早く進められたとある。私の感覚ではその後の97年頃また少しバブってきた感があったがあれは復興事業のお釣のようなものだったのか。ならば11年の東日本大震災の復興から2年後くらいにもバブル感はどこかにあったのでは。私の感覚ではその辺りからNHKのドラマのクオリティが予算も影響力も含めて民放を引き離してしまったと思える。橋本治のコラムを読むと世の中にはなんだかわなんないけどそうなってる奇妙な連鎖があると度々気づく。奇妙な連鎖とはいわばしがらみのことかもしれない。しがらみなしの若さと実行力を売り文句にする候補者も今度の選挙には大勢出馬した。が、しがらみなしで何が実行できるんだろか天使じゃあるまいしとはポスター刷の段階で当人だってわかってるかもしれないのだ。貧乏クジとわかっていてもあえてそれを引いて後々少しの義理につながればと苦労しているのはオールドボーイも「魔の2回生議員」も同じなのかも。著者にとって「物を考える」ということは「悲観的になる方向に進んでその先ですべてをグイッとねじ曲げて楽観的な方向に戻し返す」ことらしい。これはそのまま自身の小説作法である「小説ってのは全てを言いつくしてから結局何も言ってませんで終わるもの」と極めて近いよう。本気で何か決断するなら全ての考えを打しつくしてから最良の考えをとは私なども日常のかなりせこいレベルで思う。思うがそうした決断も周囲にとってはまたあの天使ちゃんが大甘なことをと呆れられているのかもしれないのだ。私自身のまだ上には上のオールドボーイがいるのだからという慢心ゆえなのだろうが。

期待の新鋭の決定打になりそうな

10月17日、阿部共実 著『月曜日の友達①』(小学館)を読む。前作『ちーちゃんはちょっと足りない』で漫画界の本屋大賞にあたる″このマンガがすごい!2015オンナ部門1位″を獲得した阿部共実の最新作。現在も『週刊ビッグコミックスピリッツ』にて連載中。期待の新鋭の決定打になりそうな本作にはカバーデザインからしてそれらしき引力が。画法も構成もこれまでとは映画学校の卒業制作と商業映画ほどの差異が。などと書いては何言ってんだ文句無しのメジャー畑だぞと怒られそうだがはっきりと商売物の風格が。本作は地方都市に住む中学新1年生たちの青春群像劇。自分の描きたい漫画しか描かない姿勢を貫くも結果スルーされるだけではない稀有な作家、阿部共実がメジャー進出に選んだ題材がローカルな小さな恋の物語というのは意外でもなく納得させられるでもなく。つまりは何だかよくわからないまま始まりやがては終わる青春の日々を真正面から描きたいのか。本作には五十男の私ですら心のアルバムを再び開かされる青春の一頁が一杯。あまりたいしたことないオタクとヤンキーだけが集まる地方の平和な学園という設定は私の思春期にも重なる。第1話で主人公、水谷茜は知り合ったばかりの同級生、月野透に「俺は超能力がつかえるんだ。俺はこんな狭い世界に収まる気はない!どおおおおん!」と自己主張される。同じようなことを打ち明ける級友が私の十代にもいたが。まさか誰にでもそんな戯言を話すわけもないだろう、相手を選んで自分を大きく見せるのはオタクもヤンキーも同じかと不快に思った。が、つまりはどちらからもなめられてたのかと今頃気づく。第3話ではその月野透がふいの暴力に屈している姿を生まれてはじめての友達、水谷茜にある距離を持って目撃されてしまう。初期の『ダウンタウンガキの使い』で松ちゃんが告白した思春期、デート中に不良にからまれるも勇気を出して彼女をかばい話がつくまでここで待っとけと立ち去るそのケツを思いきり蹴られたエピソードを思い出す。青春は痛みの連続だったしわざわざ振り返るほど美しくも輝かしくもなかったのでは。それでも本作に散りばめられた青春の美しく輝く一頁には田舎の中学高校の文化祭のポスター画にはない気迫のようなものが。そこはやはり青年誌である以上自分大好きな青春貴族たちが否応なしに仏頂面の平民へと「成長」させられていく姿までは描ききるという責任感だろう。本作は漫画家、阿部共実が何かひとつの覚悟を決めていくまでのダイアリーになりそうな予感。