しかし映画とは本来芝居を見せるもの

3月18日、テアトル新宿にて『星屑の町』(20年「星屑の町」フィルムパートナーズ)を観る。監督、杉山泰一。本作は94年に劇作家、演出家の水谷龍二ラサール石井小宮孝泰による「星屑の会」が上演して以来25年に渡る人気シリーズとなった舞台劇を映画化したもの。第一作のエピソードである低迷中のコーラスグループに歌手志望の少女が強引に加入して脚光を浴びるという展開。コーラスグループ、山田修とハローナイツを演じる不動のメンバーはリーダーの山田修役の小宮孝泰をはじめラサール石井太平サブロー、渡辺哲、有薗芳記、でんでん。歌手志望の少女役にのん。小宮孝泰有薗芳記が近年2時間サスペンスの端役で登場すると端役ながらも他の大部屋俳優との熱量の違いにおののく。本作で永年演じ続けた草の心の様な佇まいが体に染みついているよう。昨今、教師をしごいて泣きじゃくらせてもそこに新たな劇空間が生まれたとは思いにくい。余りにもそんな作品ばかりだからだ。一方、熟練俳優同志の微妙なせめぎ合いを演出家はただ見守るだけの大人と大人の舞台作りは忘れられつつあるよう。『男はつらいよ』にて「つまり兄さんとその女性とはどういう間柄なんですか」、「それよ」と始まる独り語りに喜んで付き合う優しさも今の観客にはなくなったのか。しかし映画とは本来芝居を見せるものならば今の時代はなおさら俳優個人の熱量が問われるのでは。全盛期のコント赤信号がテレビのどっきり企画に登場した際のこと。旅先で仕込みの女優と乱痴気騒ぎの最中に仕込みの男優が何だお前ら俺らの女にと怒鳴り込むと実は仕掛け人の小宮はその場で銃殺されてしまうのだが。パンという銃声と共に血糊まみれでのけぞる迫真の演技が打ち合わせ済のものではなかったとしたら。その瞬間決定的に人間として俳優としての感情の振り幅を拡げさせられたのは渡辺正行ラサール石井の方である。集団でぶつかり合う時間の中で結果的に勝ちを拾うのは誰になるかはわからないのだ。「こいつらワワワワーしかできない」連中とは本来演奏者なのだが昭和の歌番組には専属バンドがいたので出演時には全員コーラスに転じたのがムード歌謡の始まり。メインの歌手が売れたらバンドはお荷物という図式はメインの役者が売れたら劇団はお荷物という図式に重なるよう。涙まじりにもシビアに襟元を正させる時代の空気の中で俳優、小宮孝泰に今度こそお墓まで持っていける代表作をという願いは何故かしら私の胸にも。

インフレ期、バブル期、格差期と

12月20日村上龍 著『オールド・テロリスト』(文藝春秋)を読む。本作の概要は民間人が国家レベルのテロに関わるという点において『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』などの過去作と重なる。インフレ期、バブル期、格差期と時代を経てたどり着いた今そこにある危機を描いたSF小説である。過去作同様に本作にもオンタイムで読んでこその面白さが凝縮されている。主人公セキグチは仕事も家庭も失った54歳になるフリージャーナリスト。ひょんな切っ掛けから全員70歳を超える地位も名誉もあるテロ集団に見込まれ広報として利用される。敵か味方か分からない謎の美少女カツラギとPCに弱いセキグチをアシストする記者のマツノ君とチームを組み体制と反体制の間を潜行する主人公セキグチにはまず男性的魅力がない。『コインロッカーベイビーズ』や『愛と幻想…』に登場する主人公にはカリスマ的魅力がある故に有力者もよろめくという古典文学的な決まりごとがまだ成立していたが。今日、男性的魅力のある策士という設定自体に魅力がないよう。『地球に落ちてきた男』というより新大久保にて落ちぶれた男であるセキグチの現状はホームレス寸前。「百二十一円と百二十八円の違いが気になるのだ。そんな状況が長く続いたおれにとって、一万円をを超えるタクシー料金はほとんど異次元の世界だった」という告白を涙ながらに読む読者の中にはタクシー券なるものを見たこともない氷河期世代もいるだろうか。「これは一種のストックホルム症候群だ、人質が助かりたい一心で犯人に好感を持ってしまうのと同じだ」とテロ集団との距離にとまどうくだりでのセキグチは既に軍資金としての闇金十億円を受け取っている。助かりたい一心で尻尾を振る人質の行為は人見知りの反動だが。人見知りであれ日常生活に支障がないのは富裕層のニートだけである。本作に登場する反体制の人物たちは皆ほとんど富裕層のニートみたいなものでは。どんな人間とも生きる為に付き合わざるを得ないセキグチだけに「あなたは本物の記者だ。こちらも命を賭けて頼まないと書いてくれないだろうと、最初からそう思っていた」などとよろめく老人たちはちゃっこい田舎やくざとしか思えずその意味で説得力充分のラストである。同時に本作の微妙に生温かい後味はテロル三部作の殿(しんがり)というより映画版『だいじょうぶマイフレンド』の続編にあたるような。加齢臭ただようセキグチは帰る場所もなくした最後の新人類である。

大きな声では言えないがこういうのも

12月1日、勝又進 著『赤い雪』(青林工藝社)を読む。本書は漫画家、勝又進が78年から80年までに『漫画ゴラク』などに発表した作品を05年にまとめた既刊の普及版。帯文には“つげ義春水木しげるが絶賛し、2006年度第35回日本漫画家協会大賞を受賞”と紹介されているので著者の略歴を知らない私は近年の若い漫画家と勘違いしていた。今の時代にあえてはっぴいえんどのような音楽を追及する若いミュージシャンの漫画家版なのかと。実際タッチもつげ義春に似ている勝又進は43年に宮城県に生まれた。66年に『ガロ』にてデビューした頃は東京教育大学理学部物理学科の学生だったがその後は大学院に進み原子核物理を専攻と巻末のプロフィールにはある。要するに商業的成功には縁遠かったものの略歴と作風の奇妙なバランスが昨今注目されているよう。07年に病死するまでは原発をストレートに扱った作品も発表している著者はガロ系まんが道においても更に鬼っ子的存在だったが。解説文に登場する池上遼一佐々木マキ呉智英らの知名度と比べてもその神秘性は高まるが作風自体はへたウマというより学童漫画のよう。スクールゾーンの交通安全ポスターのようなタッチで描かれるのは田舎の若い男女の捨て鉢な性愛。つげ義春の『紅い花』を意識したと著者自身も語る『桑いちご』に登場する少年少女のコミュニケーションは殴り合いに噛み付き合い。旅館で芸者遊びをする観光客に「肝臓の薬になるぞ」とドジョウを売り歩いて収入を得るくだりや姿を見せなくなったケンカ友達の少女を「まさか赤痢にでもなったんじゃあんめえな」と心配するくだりの土着性は本物。つげ義春が人気だった60年代のディスカバージャパンブームから10年遅れてというか初めからそこに居た著者のローカリズムは郷土愛とはまた違うような。表題作『赤い雪』に登場する男女が豪雪の中、巨大な酒樽を寝床に逢引きする描写には90年代に細川しのぶが主演するAVでどこか田舎の味噌蔵の大樽の中でからみ合うシーンを思い出す。不景気真只中ゆえかまともな観光ホテルの大浴場でも集団プレイを撮ったりしていたあの時代と『赤い雪』の時代はまったく地続きなのでは。先だって観た村西とおるの記録映画や観るのを止めた松尾スズキの新作映画のことを取り上げるまでもなく結局は酒池肉林もしくは無理心中と昭和男のロマンの終着駅に古いも新しいもないのでは。大きな声では言えないがこういうのも嫌いじゃないと言えるくらいがまず健康と叫べそうな曰くの珍品。

わざとらしくフライングさせることで

11月20日新宿ピカデリーにて『iアイ新聞記者ドキュメント』(19年スターサンズ)を観る。監督、森達也。本作は東京新聞社会部記者、望月衣塑子の取材現場を密着取材した報道ドキュメント。望月記者のスーパーウーマン的な活躍ぶりにカメラは息も絶え絶えついて行く。一方で監督の得意技であるお騒がせ男のその後にスポットを当てて意外な素顔を引き出す手法は健在。元TBSワシントン支局長による準強姦事件の告発者、伊藤詩織さん、森友学園問題の籠池夫妻などへの取材にもそれは活かされている。が、ボスキャラは加計学園問題の前川喜平氏。本作を観て初めて私は前川氏は出会い系風俗店を利用しただけで別に性犯罪を犯したわけではないのだと知ったというより気づいた。勿論そんな報道はされていないのだが。日々の生活の中で記憶に残る特に思い入れのない人物のイメージなどいかようにも歪んでしまうものらしい。何だかいやらしい件でポストを追われた官僚と私が勝手にイメージしていた前川氏は現在「福島駅前自由夜間中学」なる学舎で義務教育を修了できなかった人々の為に議会や選挙のしくみをレクチャーしている。ボランティアで遠路はるばる通う列車の中で森監督は「前川さんの奥さんは(そっち方面に)寛容なんですか」と興味深そうに問う。「歌舞伎町だけはもう行くなと言われてますよ」と苦笑する前川氏。ドキュメントは誰が撮ってもそこには演出もショーアップも映っているという信条の森監督はいやらしい件でポストを追われた元エリートという前川氏のカードの裏表を見事にひっくり返した。が、これも森監督の味付けが効いた無限の真実の中の一片だとしたら私は今の所は森監督の味付けが気に入っているのだ。本作では劇中にアニメや音楽が大胆に導入されていてドキュメントながらもそれらは劇中劇であり劇伴という印象。わざとらしくフライングさせることでいったん観客を突き放してみせる新しい手法なのかとも思ったが。パンフの中の監督へのインタビューでは「作風が変わったと感じられるのは、おそらく僕自身が、自分の撮影スタイルに退屈していたからだと思います」と語っている。ルーティーンでこなし始めたらドキュメンタリストは終わりではないのかという危機感は言わば皮肉ではなくなる事態を恐れているのだと思うが。それではカメラの前に立ち塞がる側のルーティーンはいつ誰が解決してくれるのだろうかと終映後のまばらな拍手の中で思った。

過去20年のハイライトシーンの再演

9月28日、日比谷野外音楽堂にて、eastern youth を観る。晴天に恵まれた客席は満杯。「うだつのあがらないバンドを20年も続けてきましたが、かき集めればいるものですな」と感心する吉野寿の健康状態も悪くないよう。過去20年のハイライトシーンの再演といった感のセットだったが極めつけの1曲をたて続けに10曲、20曲と演奏すれば観る側もこたえる。もう10曲やれ、朝までやれと沸き立つ聴衆もよく見ればそう若くない。90年代の終わりに青年だった聴衆も今や立派な中年。革ジャンを重そうに脱いで座席にへたり込んだ手前の男も40過ぎくらい。子供がぐずり始めるのを交代であやす家族連れまでいる。この日の模様は来春DVD化されるそう。その為か照明効果も凝っていて多分にドラマチックであるがゆえ聴衆の反応も自然芝居がかってしまいそうだが。「集団的熱狂とか求めてないですから、皆さんそれぞれで」と吉野寿が語る通りこの日の聴衆は飾り気なく大人だった。思えば80年代のライブシーンにはお飾りとしてのバイオレンスが持ち込まれていた。その場を盛り上げようとぎこちなくつかみ合う男らは私には少し不快だった。90年代になると今度はお飾りとしてのセックスが持ち込まれ始めた。その場を盛り上げようとぎこちなくからみ合う男女らは私には大変不快だった。そうした表面的な熱狂など今日誰も追及していないということか。現在のメンバーになってから発表された曲の中からはオープニングの『ソンゲントジユウ』と中盤の『時計台の鐘』の2曲が演奏されたが。「一時は終わりかけたバンド生命を蘇生させてくれた」と紹介された村上ゆかのMCは4年目にして自身の立ち位置がわかってきたという自負に充ちたものだった。が、『時計台の鐘』における聴衆の反応はどこかとまどいもあったよう。この曲を分岐点に自分たちのキャリアにひと区切りつけようとするバンドに対して何か警戒しているような。厳格な聴衆からは4年やってもまだ新顔扱いされるeastern youth というバンドは職人肌のプロフェッショナルなバンドだ。プロフェッショナルというものは金にならないこと以外は手出ししない拝金主義のイメージもあるがもっと危険なのは常人には何が匠の技かわからないことにつけ込んで阿漕なこともできるという点だが。物事の上っ面だけに騙されてはいけないというメッセージはもう充分伝わったし仮にバンドがここを区切りにどう変わろうと勝手じゃないかとも思えた。いつの間にやら皆すっかり大人になっていたのだ。

私には頼もしいその変わらなさが

9月21日、eastern youth『時計台の鐘』(NBCユニバーサル・エンターテイメント)を聴く。本作はアニメ『ゴールデンカムイ』挿入歌のタイトル曲を含む全3曲のシングル。『ゴールデンカムイ』とはどんな作品かとコミックス第一巻を読んでみる。明治37年の北海道の雪原を舞台に不死身の杉元と呼ばれる日露戦争の復員兵がアイヌ民族の秘蔵する幻の金塊を手に入れるべくアイヌの少女アシリパと共闘する冒険活劇といった大河ドラマ。既にシリーズ全体の研究本も出ている人気漫画らしくアニメも話題のよう。90年代のビジュアル系バンドの様にライブハウスからアニソンで一気に全国区にという展開も期待してしまうが。『時計台の鐘』はそうした内容の大河ドラマを現在に引き戻す幕引き係の様な歌詞世界。「本当は雪なんて降っていなかった ただ吐息だけが降っていた 時計台の鐘なんて鳴っていなかった ただ鼓動だけが鳴っていた」というくだりには今現在見える景色の中で思考のアンテナを張りめぐらせようとする吉野寿の詞作の変わらなさが。私には頼もしいその変わらなさが『ゴールデンカムイ』の急進的なファンには『ルパン音頭』を唄った三波春夫のごとく興醒めになるかもしれない。「感傷必要ねえ俺の感情回路を」、「『感動』は路肩の塵」という部分が本作で最もきわどい表現に私は思えた。ラグビーワールドカップ本戦と読売巨人軍優勝決定戦ではいずれの戦いがより英雄的か。より高尚な戦いというものはあるのかもしれないと感じるもそれもまた何かたぶらかされているような。『循環バス』の中の「一足飛び何処へも行ける でもこんがらがって縺れた足のもどかしさにふと諦めてしまうのさ」というくだりにはバンド自体が当初から背負ってきたテーマの様なものが。心意気はワールドワイドでも上を見れば切りが無しということも熟知したような。と言うとまるで大正文士だが恐らくこれまでのeastern youthの支持層はそうした文学性に反応していたのだ。それがともすれば大きく変化しようとしているのかもしれない。が、少しも変化しないかもしれない。かつて坂本龍一が音楽を担当した『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の様にアニメファンはその辺り敏感に嗅ぎ分けてスルーしそうな気もする。その辺りとはどの辺りかを説明するのは難しい。が、説明する必要もさしあたってない今現在に私は少しくらいは感謝しなければいけない気もする。

フランチャイズに入れなかったので

9月17日、『愛のお荷物』(55年日活)をDVDで観る。監督、川島雄三。本作はフランス演劇『あかんぼ頌』を映画化するはずが権利がとれず内容を改変したもの。フランチャイズに入れなかったので堂々といただいてより面白い作品をと狙った感。人口抑制を主張する厚生大臣の家族全員に次々と子供ができるという喜劇映画の本作を初めて観た時には同時代の邦画より頭ひとつ抜き出た意欲的作品と思った。意欲的とはどこかがっついている感じがしたことも含む。90年代に日本のバンド、ザ・コレクターズが60年代のマニアックな英国ポップのいただきもので一部人気を集めた際に「ファンは元ネタを知らないから俺たちを天才と思ってる」と語っていたが。ファンならずともいただきものかどうかは何となくわかるものである。が、ファンになった以上そこはこだわらないしファンでなければ全くどうでもいいことだろう。『愛のお荷物』は55年の『キネマ旬報』ベストテンに入っていない。同誌が選ぶ戦後ベストテン入選監督にも入っていない川島雄三に全く興味がない邦画ファンはザ・コレクターズに全く興味がない邦楽ファンと同じ様なものかどうか。本作の中には押し黙っていた人物同士が同時にしゃべり出して失礼、お先になどと譲り合う場面が何度もある。どこか強引に西洋人ぶっているようでもあるから新劇調の演出なのかもしれない。似たような演出で親子だからさりげない仕種も同じ、例えば寝相も同じといった演出は最近のテレビCMにもある。日本映画で人物同士が同時にしゃべり出して譲り合う演出が自然に見える例はあまり思い出せない。当時どんな監督がどんな俳優で演出してもわざとらしくなるものを川島雄三は何故あえてやってみたのだろう。過去に評論家のおすぎが高嶋政宏は日本人には稀にみるベッドシーンの似合う男優と称賛した際、なるほど似合うと納得すると同時にそんなことどうでもいいじゃないかとも私は思った。やっと日本人にもベットの似合う男優がとそれ自体を喜ぶ態度が物悲しいのだ。見た目がオードリー・ヘップバーンでも立っている風景が『ローマの休日』をいただく船橋ヘルスセンターの様では物悲しいのだ。何だか妙ちくりんな物をつくっているなと本作の俳優たちも当時何となく感じていたのかもしれない。が、俳優たちは皆楽しそうで川島演出にはっきりと乗っている。どこか90年代の和製モッズのようでもあり今となってはそっとしておいてあげたい気持ちにも。