お前なんか全身ヘアヌードである

 新宿武蔵野館にて「ぼのぼの/クモモの木のこと」を観る。平日であったが客席には子供連れのお母さんが何組か来ていた。お母さんだって30代前半くらいのほぼ私と同世代なのだが。その世代のお母さんが私の隣で子供らに上映中与えるお菓子がハートチップルだったのである。たちまち客席にはあのハートチップル臭が充満。私もその世代だけにハートチップルも雷鳥もそれ自体を下品だ親父だとののしる気はない。が、お陰で映画の印象は下品でえげつない世界にも思えた。

 考えてみればぼのぼのもそろそろ思春期である。ベッドの下にスコラの一冊も隠していないほうがおかしい年である。青い毛のぼのぼのであれば外人好きか。バチュラーか。そんな背景もあって竹書房製作による今作は大人向きとも受けとれた。

 ぼのぼの達の住む森の守り神的存在のクモモの木。そこに佇み何かを待ち続けるポポというフェレットの男のコと仲良くなるぼのぼの。が、ポポの父親というのが暴力団関係者(とおもわせる設定)なので周囲は心配する。息子のポポは心優しい良い少年なのだが父親のせいで友だちはこれまで一人もいなかった。母親代わりにポポの世話をしてくれるおばさんと二人暮し。父親はほとんど家に帰らずたまに帰ればケンカの後の生傷だらけである。そしてポポの父親はそのような生活を繰り返すうちに遂にこの世を去る。途方に暮れたポポは再びクモモの木の下で何かを待ち続ける。そこへぼのぼのがもしかしたらボクを待ってたんじゃないのォか何かのこのこ顔を出してポポを余計に苦しめてしまう。そのとき空から落雷がクモモの木を襲い辺りは火の海に。クモモの木の燃える匂い森の住民各々に忘れていた何かを思い出させるのだった。クモモの木の下で何かを待ち続けていたポポもその何かを悟る。いつも自分の面倒を見てくれるおばさんと死んだ父親とは事情があって公にできない本当の夫婦だったと。つまりポポにとっては実の母親であったのだ。クモモの木は焼失してしまったが、森の住民に忘れかけた大切な想い出を蘇生させてくれたではないかめでたしめでたしって公開中の劇場映画のストーリーを最後まで書いてもいいのか。ポポの父親的なプッシャーに一発見舞われはしまいか。

 それにしてもCG映像は不気味に美しい。昭和40年代後半のカルピスこども劇場「山ねずみロッキーチャック」以来の素晴らしい出来映えである。つまりあの森の樹々の葉一枚一枚が風にそよいでいるザワザワ感である。森全体が一匹のけもののように息をしているかのような。CG制作の現場をまるで知らないのでその苦労の程も想像できない。が、セル画であのザクザク感を出していたロッキーチャックは勿論ド偉いにせよCGによるぼのぼのだって相当偉いと思う。その苦労をこれ見よがしにはしないゴンチチの脱力感いっぱいの音楽も良い。こういう良いものもちゃんと作ってますよウチは。ヘアヌード写真集ばかりじゃないんですよという竹書房サイドの自信を感じる秀作。子供にとってはメルヘンで大人になってから再観すると現実のドロドロした部分を正面から説いていたりもする。70年代にはそうした実はヘビィーな子供向き番組は多かった。それは劇場映画が下火になって映画屋がテレビになだれ込んだ為に起きた事なのだろう。不況の時代にはジャンルの壁を乗り越えた流浪の職人が現われる。ぼのぼの制作スタッフになる前は機織り職人で親父は人間国宝なんて人材もいるのかも知れない。畑は変わっても持てる力を全力投球というのは大切な心構えである。客席でハートチップルむさぼっているバカ親子には勿体無くねというのが正直な感想。だが今後もこうした勿体無い作品をボンボン生み出してくれそうな竹書房いがらしみきお。まるで初期のにっかつと神代辰巳である。つまりぼのぼの絵沢萠子である。絵沢萠子ぼのぼの説。