一個人対七分目個人である

 家主のエイチと再び温泉旅行に行くことになった。最寄りの駅から東上線に乗り継ぎエイチ宅のある上福岡まで小一時間電車に揺られる。この時点で小旅行。いつ降りても東京オリンピック前後の佇まいが残る駅前通りにエイチは私を待っていた。これから早速エイチの運転するワゴンで群馬県吾妻渓谷畔ムササビの宿、敬業館みよしやへと向かうのだ。カーステの調子が悪く車内BGMはAMラジオのみ。「アッコのいい加減にせんかい」に耳を傾けながらお互い余り興味も無い近況を話し聞きあう。これから泊まるみよしや一帯の湯の町はダム建設計画の中心部にあるらしい。つまり、四、五年先には跡形も無く地上から消え去るわけで俺達にゃピッタリの隠れ宿じゃないかというのがエイチの主張である。気分は「一個人」といったところか。しかし仕事も家庭もまずまず順調な一家の大黒柱たるエイチなら週末の一個人ごっこもよろしかろう。私のような三十面さげて名も無く家も無いねずみ男が一個人を気取るのは気が引けてしまう。まっ一個人ならぬ七分目個人としてエイチにおんぶされることに決める。

 「カレーライスって美味しいよね。時々無性に食べたくなっちゃう。で、またすぐ食べちゃう」などとパーキングエリアでカツカレーをパクつきながらエイチははにかんだ。私はタコ焼をいただきながらもエイチが妙に下手に出てる様子に用心した。小学生のようなことを言いながら頭の中ではなんぞビジネスライクなことを考えていると判断したからである。そして案の定宿につくなりエイチは平身低頭で当コラムの延長を申し入れてきた。私ごときのようなしょぼい広告塔でも無いよりマシということらしい。現状では私が客寄せパンダとなり集められる客数は日に30人前後らしい。古本屋の客寄せパンダとしては合格だろう。コラムニストとしてはたった30人の読者のための書き手など成立するわけないんだから、お前今のままが案外幸せなんだからか何か説き伏せられる。結局来年の夏まで当コラムは続行する。エイチはスクラップ&ビルド的なことも企んでいて雑文だけじゃなく詩や小説にもトライしてみと言った。私は即座に断った。ボンヤリしていると私の書き物はすべてカワセミ書房プレゼンツにされてしまうではないか。油断もスキもないではないか。全く値打ちの無いガラクタ文芸ということもないので友情出演どまりでと念を押したいが未だにガラクタである。古本屋のお抱えライターで主役も主役の一人舞台である。ガッデム友情。歯ぎしりしつつのコラム修行はもう半年続く。四、五年先には消滅するというムササビの宿みよしやにその夜ムササビはあらわれず。最近はなんだか数も減ってしまいましてと従業員の男は小声で語る。ムササビにも逃げられるお寒い宿かと私は思った。それでも町民だってただで住む場所を追われるわけが無い。はっきり言って相当額の立退き料がその、ねえなどと大きなお世話なことを考えつつ湯につかる。
 部屋に戻って夕食である。会席料理である。好きな川魚と山菜の酢の物が美味だった。70年代のシオノギミュージックフェアーをテレビでながめつつビールを一本。このジュリーって俺達より年下なんじゃんなどと感心したり空しがったりして後はひたすらウイスキーを飲んだ。寝床につく頃には完全に酔う。クラスの好きな人の名前をヒソヒソ教え合う。卒業して最早十五年。好きな人も今ではあんまし好きになれない容姿に変わっているはずである。まあ逢わないほうが無難だわななどと失礼なことを勝手にぬかして眠る。

 翌朝は山田かまち水彩デッサン美術館に二人とも初めて立ち寄った。割りと最近上野で開かれた山田かまち展をコンパクトにした感。何となく神聖と言ってはオーバーでも清らかな空気が会場に漂うところは同様。暗がりの中でじっと息を殺して来客を見渡すようなかまちのパネル写真が印象的。ルックスもメッセージもあまりに青春的なかまちには若い女性ファンがいつもこのように何処からともなく訪ねてくるのだろう。男子トイレの便座正面の鏡にはところで貴方はおいくつで何なさる方と問われているようだった。俺か、俺も芸術家だ。天才でスターだと大見得をきって遁走。しかしいずれは真顔でそんな台詞を吐きながらも外出禁止令とは縁の無い文士となり再観したいかまちワールドだった。

 急に調子の戻ったカーステでサニーデイ・サービスの「サニーデイ・サービス」を聴きながら東京へ帰る我々。我々の乗るワゴン車の真横を荷台一杯の養豚を載せた10トントラックが通過する。ふむ、ここでストップモーション、続いてエンドロールだなと思った。手前ェ勝手な三十六歳の自伝ドラマを宿酔い頭でシナリオハンティングしていたのだ。無名のままに燃えつきた一人の文学者の生涯を描く。描いて描いてシリーズ全36作。全てが人生のたわいない退屈なとある休日のモンタージュ。で、ラストは決まって養豚所のトラックが登場。寅さんシリーズの凧揚げのカットを意識して。拝啓、その後お変りありませんでしょうかなどとワゴン車の助手席で一人ぼやき嗚咽す。