現代は時間との闘いである

 銀座シネパトスにて田宮二郎特集「風速七十五米」を観る。昭和38年の大映作品である。昭和33年の日活作品「風速40米」がどんな内容か私は未見である。が、特撮シーンの技術は恐らく本作の方が上だと思われる。「風速40米」にも台風の見せ場があるはずと仮定して。大映怪獣ガメラと日活怪獣ガッパの技術面のみを比較して。ガッパの人情劇、母子愛。湯の町ロマン等の魅力あふれる持ち味は一端切り捨てて特撮技術の完成度のみを秤にかければ大映の圧勝であろう。もっと言えば特撮に限らず大映は圧勝だ。画面の張りも役者の重厚な演技もコールドゲーム的に圧勝なのだ。もっと言えば他社の作品ではあまり利口に見えなかった役者も大映作品ではなにやらキレ者に映えるのである。頭が良く野心も目的もある美丈夫にみえるのであるどんな俳優も。つまり大映近代主義的である。もっと言えば大映は邦画の京都大学である。60年代の大映作品に感じるのはそんなことである。

 「風速七十五米」の主演は宇津井健と言っても良いかも知れない。新聞記者の宇津井は地方取材中に大型台風に遭って以来同じ規模、それ以上の台風が東京に上陸したらという危機感に悩まされる。周囲から台風記者と呼ばれるほどに東京の台風に対する無防備さを書いて書いて書きまくる。ある日、銀座のド真ン中に建てられた製薬会社のネオンが爆破された。犯人はネオン工事を請け負う建設会社に負けたライバル会社の暴力装置にあたるよろず裏稼業グループだった。その中心人物が田宮二郎である。事件を追う宇津井と田宮は七年前まで同じ大学のワル仲間だった。卒業後、宇津井は新聞記者に、田宮は本物のワルとなり敵同志に。「七年も経てば人間も変わるってもんだぜ」と田宮の正体を知って肩を落とす宇津井に逆に田宮が毒づくシーンが印象的。

 田宮二郎大映作品で演じてきたのはこうした車の排気ガス的必要悪なキャラクターが主である。他の役者には出せない苦味走ったクールテイストが本作にてんこ盛りである。田宮らが狙う建設会社の社長の娘は学生時代の田宮と宇津井の共通のマドンナであった。映画の半ばではまだそれぞれの立場と宿命に気付かぬ三人がバーで再会し乾杯し、思い出話に花を咲かすシーンもある。が、やがてマドンナも田宮の正体に気付く。気付くが「私達の本当の敵はこの人の後ろに立つ人なの」と田宮をつるし上げにかかる身内連中を制する。田宮の後ろに立つ人物とは戦争孤児であった田宮を親代わりとなって育て上げ一流の大学を卒業させ筋金入りのプッシャーにした圧力団体の親玉である。命の恩人とも呼べるその人物の命令で手を汚し続けてきた田宮だが元親友の宇津井から諭され忠誠心を失いそうになると簡単に始末される。それまで自分の片腕だった高松英郎演じる仲間のプッシャーが田宮を狙う。その時東京には宇津井の恐れていた風速50米以上の台風がやって来ていた。嵐の中で巨悪に踊らされ犬死していく悲しい男を演じるスクリーンの似合うスター!田宮二郎。なのだが田宮二郎がスクリーンで演じるこうした人物像と素顔の田宮二郎とは紙一重なのかも知れぬと私は思った。今では良く使われる当て書き的なキャラクター着けはどの作品にも見受けられるし汚れ役に乗りまくっている熱気が伝わってくるのだ。ヒストリー本など出そうで出ないのは今でも影響の大きすぎるドロドロしたタブーがその死の周りに幾つも横たわっているからではないか。

 田宮二郎の死後には田宮二郎的な命懸けのニヒルはパロディックなギャグの対象となっていく。しかしここに来て再び田宮二郎的な命懸けのニヒルは待望されているかも知れない。やはり男児に生まれた以上は田宮二郎的人生を駆け抜けてみたい。一度は。巨悪に踊らされて犬のごとく絶命してみたい。一度は。隣にはべらせてるのはありゃ愛人だろうと言われるようになったらスターでも何でも無い。土建屋の社長と変わりないではないか。スターが愛人宅で倒れるわけないの。そのようなことを「風速七十五米」の田宮二郎を観てつくづく思い知らされた。映画は大映