神様の時代って何か変である

 好評につき5月以降もダラダラ続くというテアトル新宿におけるレイトショー「タカダワタル的」に出かけた。監督は「モル」のタナダユキである。ギャグてんこ盛りスプラッター浪花人情悲喜劇とも呼べる「モル」から「タカダワタル的」に駒を進めたタナダ監督は高田渡をかつての「フォークの神様」としてカリスマ視する70年代からのファンはさて置き若い世代に向けて、こういう人間になってはいけませんよという意味で本作を発表したとか。興業的な成功もその辺りにあるのかも知れない。本当に高田渡的世界に70年代からどっぷりのフォーク世代のディレクター、例えば進行を手伝う柄本明がメガホンを取ればこうは行くまい。

 なんでも編集前の段階ではアルコール中毒で入院中の様子などもあったがカットされたとか。京都のライブハウスで共演するマンドリン奏者がその後病死してしまうのだが、映画ではその事には何のフォローも無く楽しげにジャムるバンドの様子を見守る高田渡を写すのみである。現在は父親のバックバンドに参加しながら車両もこなすスティールギター奏者の息子にインタビューするも「あんまり(父親だとは)意識せず演ってますよ」と答えられそんなものかとさらりと流す。ドキュメントのディレクターなら逃しはしない人の生き死に、親子の絆などといった好素材は一切使わないのである。で、何使うかったら地元の居酒屋にまだ真昼からやあやあと現われ、半分弱ってる店主にあてがわれたビップ席に陣取り昼酒をあおる所は使う。案外ゼイタク。いやかなりゼイタクなスター生活とも私は思えた。こんな男とはもう何十年も平気で連れ添ってる女房もスゴイよねと酒の勢いで本音をもらす高田渡の妻への感謝は使う。が、高田家にお邪魔しての宴会実況中継の場面ではその奥さんがどの人なのか判別しない。奥さん自体は使わない。

 そうしたものぐさクールな現代っ子ぶりのタナダ編集の中で唯一正面切った抜き身の演出はオープニング。70年中津川フォークジャンボリーで「ごあいさつ」を歌う期待の新人フォーク歌手高田渡の姿だ。まばらな拍手に対して知り合いですが風ないなしを決めてサッサと歌い終わるとニヤッと不敵にほくそ笑む高田渡東芝時代のエレカシの宮本より怖い。その怖い高田渡が30年後に今の高田渡になって多くのファンに愛されている様子は微笑ましく素敵である。こういう人間になりたいとすらうっかり思う。そういう愚か者が量産されてくれるとまだ後何本かぶっつけ企画がねとタナダユキは思うだろか。