今メチャクチャ好きな中年である

 コラムニストの看板を掲げてある時期一世風靡した文筆家の残した小文集ならどれもそれ相応に読み応えがある。あるのは分かっているのだけど、世代的に距離があってそれまで手に取ってじっくり読むことがなかった。そんな文士とも思いがけず向い合うきっかけがある。
 大概は映画を観に行く途中に入る茶店やファーストフードの店で読み物が必要に思え、近場の書店ないし古本店にもぐり込んだ時である。何となくお腹に何か入れておいた方がいい時についでに読みたい読み物というのが、いざ選び始めるとなかなか難しいのだ。口の中に物を入れるのだからエロっぽいのは駄目。ミステリー、心理劇などもこれから観劇する私の不出来な脳にはノイズになるので駄目。
 じゃあどんなものなら読めるっちゅのよと自分でもムカムカする内に食事などする時間もなくなってくる。飲食する時間がないということは読書する時間もないということなのにもう引っ込みがつかずチョイス。チョイスしてチョイスしてもう一分だって十秒、一秒だってこんな所で文庫あさりしてられぬギリギリ一杯に選ぶのが、先に記したまだまともに読んでなかったコラムの大家の作品なのだ。私の場合このようなシチュエーションで内田百聞や武田百合子の文章と出逢ってきた。
 同様にして最近になってようやくまともに読み始めたのが遠藤周作のぐうたら物である。それまで狐狸庵先生、遠藤周作を違いのわかる男としては認知していた。が、狐狸庵先生なるあの屋号を私はコリアン、つまり朝鮮方面の文化史研究で知られるコリアン先生なのだとつい最近まで思い込んでいたのだ。実際はキツネやタヌキの出る東京郊外の山里に住居をかまえているところから狐狸庵なのだった。
 ブックカバーを和田誠が担当する『ぐうたら社会学』の裏には昭和四十年頃の著者近影があるが、五十代とおぼしき狐狸庵は現在の竹中直人にすんなり似てる。と、書いては本末転倒か。現在の竹中直人は何もしなくても遠藤周作に似てる。
 何もしなくても似てるといえば竹中がらみでもう一件。数年前のある日曜の夕方に、テレビ東京の旅グルメ番組に砂川啓介が出演していた。で、その時の砂川啓介の服装というのが野球帽に黒のレイバンに地味な背広をラフに引っかけるというもの。そしてあごヒゲをなで回しながら仏頂面で何やらシメのコメントをアシスタント嬢にはさまれしゃべくる砂川啓介。その姿は竹中直人がコントで演じる変質者キャラそのまま。だが、砂川は素だ。人に怪しまれる理由は全くないと本人は思っている。私は己の良心にかけて笑いを堪えたり。