言い訳なんて土留色のはずである

10月27日には新文芸座にて「日本映画検証⑦ 大映映画の鬼才 増村保造」『でんきくらげ』(70年 大映)と『しびれくらげ』(70年 大映)を観る予定。同特集は10月14日から日替りでスタートしていたのだが結局最終日にしか足を運べなくなってしまってやや残念。ただ増村作品の面白がられ方というのが今現在どんなものかとも。
90年代後半に入ってから再評価熱の高まった主に60年代の大映作品に拍手を送ったひねた映画ファン層の大半は80年代の『スチュワーデス物語』の作家の源流としてそれらの作品をむさぼり始めたのだろう。とっかかりは狂ったコント作家として増村と出逢いそれらをさらにエスカレートさせた惨劇、悲喜劇の旗手として増村を半笑いで支持してきた若年層というものが一つあったとして今はどんなものかとも。
今から映画の世界に何らかの形で関わりたいと思っている若い世代に増村ワールドはいかに検証されていくのかが不安といえば不安のような。にらみ合いになる主要キャスト二人のきっちりセンターに位置する草葉の影からやおら堂々と現れた第三者の口から「今お前さんの目の前にいるその男は十三年前にお前の父親を殺し母親を犯しそして孕ませたお前の妹を土地の有力者である奴の兄貴分に云々カンヌン」などと説明的台詞が続く間も人物移動もまばたき一つも起きぬ異様な劇空間。これは参考になるなどとそれらに身を乗り出した映画学校生の作る卒業制作映画を私はあまり観たいとは思えぬが。
観ない訳にもいかない講師陣たちの脳裏にひょっとしてこれは増村かという思いがよぎりやがてへなへなとしなだれる姿が目に浮かぶ気もするのだ。増村映画の現代風パロディは恐らく面白くもかゆくもない。いや、増村映画はパロディ足り得ない。もしくは全てのパロディはパロディ足り得ない。増村映画の前では。靴下を脱ぎ引っくり返して匂いを嗅ぐような茶化しかたができるほど安仕掛けな作劇は60年代の増村作品にはひとつもない。
唯一これを今リメイクするならどんなものかと思わせるのが70年代に入ってからの渥美マリとのお色気路線、『でんきくらげ』、『しびれくらげ』の軟体動物シリーズかと思うのだ。渥美マリの次世代の新世紀娘にとって愛人生活、水商売、黒社会との交遊などは当時に比べて泣くも笑うもなくただそこに在るものになってはしまったようだが。
愛も誠もなくただこの世に生み落とされた軟体動物の排泄物が突如次世代の惨劇、悲喜劇を演じ始めないとも限らないのではないか。グッド・イヴニング石松愛弘な土留色の新風よ。