愛と死を見つめ倒し押し倒しである

12月22日、江戸東京博物館にて「荒木経椎 東京人生」を観る。両国などという街にはまず出かける機会がないので途中、春日のらーめん花月にて味噌ちゃんこラーメンを食べてみたり。が、両国駅前にはそうした小旅行者向けのエコノミーなちゃんこレストランが行けばあったのだった。早漏丸出し。
江戸博物館なるものがあれほど巨大な近未来ミュージアムであることも行ってみて初めて知った。入場口には小学生たちが行列している。彼等はあれだ常設展の江戸の歴史とか戦後の復旧なぞを社会科見学に来たわけだなと小学生にまじって私も入場口をくぐる。が、「荒木経椎 東京人生」は全部で八ヶ所にもわたる展示コーナーが常設展の中にもモザイク状に闖入するというスタイルのイベントであった。
当然アラーキーであるからその内容から裸女、性風俗なぞのモチーフは外せない。展示内容の中には未成年、児童には刺激の強いものもあることをご了承下さいといった告知が建物のあちこちに貼られてはいるが。いいんかなしかしと思いつつ私も小学生にまじって人妻ヌードをキャッキャッとながめ歩く。
杉浦日向子さんの大分具合の悪そうなポートレイトを初めて見た。アラーキーだから撮ることができた一枚だとは思った。その一枚から離れた場所にまだ元気な頃の杉浦日向子さんが何やらぼんやり街頭にたたずんでいる別の作品が展示してある。ここ最近書店に平積みされている追悼ポップ付きの杉浦日向子関連書籍に私は何となく後ずさりしていた。杉浦日向子さんの死を受け入れられぬ程の熱心なファンだったわけでもないのにその死の余りのあっけなさというか儚さに後ずさりしていたのだと思う。
アラーキーの視線はそうしたあっけなさ、儚さから逃げないしスキャンダリズムに酔い痴れることもしない。只、見ている。只、見送っている。他に何ができるというのと強く優しく問いかけられたような気が二枚の杉浦日向子さんの在りし日の写真からは。そしてアラーキー自身もここ数年の仕事振りは精力的というより霊的なラストスパートに突入した感がある。映像作品アラキネマでの街頭撮影風景のコミカルな動き。
こんなアラーキーに私は一度だけ都電荒川線の駅のホームですれ違ったことがある。突然写欲してバタバタと何物かを追い駆け始めたアラーキーに弱りきった様子で付いて行く若い助手の男女。幸せなおじさんだなと当時は思った。アラキネマの中の現在のアラーキーは幸せなおじいさんだなとは思えなかった。何かが最早人間離れしていて自身もそれに気付きもしないような。