ゲットーに白鳩舞う今に思うんである

6月6日、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『愛と希望の街』(59年 松竹)を観る。添えもの映画特集のトリが大島渚というチョイスに何か感じるものが?私は感じなくもないが今時の若者にはどうなのだろう。世界のオオシマだってデビューは添えものだったんだなどと今時の若者に痛感して欲しいっちゅ訳でもないが。
私はといえば20年程前の二十歳前に本作を観た時は添えもの映画の何たるかもまったくわかっていなかった。わかっていなかったが何やらガツンときたような心持ちになっていたような。今回改めて観てやはりガツンときたような。本作以外の添えもの作品と比べても与えられたフィールドに対する仕事量が圧倒的に違う。今度の添えもの映画特集では山田洋次のデビュー作である下町貧乏ドタバタコメディとカップリングされているのだがそのことに悪意すら感じてしまった。
街頭で娘を売る貧しい少年を理解し力になろうとしてもなれないブルジョア家庭の少女を描く大島作品。念願のマイホームを持った若夫婦が借金の為に間貸しを始めるが曲者揃いの下宿人たちに泣かされていく山田作品。どちらも貧しい。どちらも世知辛いのだが。山田演出はこの時代の貧しさ、世知辛さと肩を組んで楽しくやっていこうじゃないかといったうつむき加減の楽天性が感じられる。大島作品はといえばそうした貧しさ、世知辛さといったものにハッキリと牙を剥いているような。牙は剥いているのだが当時はまだ添えもの映画でデビューしたばかりの新人監督なのである。
添えもの映画の新人監督というわきまえがなければ山田洋次もまた牙を剥いただろうかと思う。いや山田洋次は本作『二階の他人』の頃から牙を剥いているのだ本当は顔で笑ってといった観方もあるだろう。『二階の他人』が『愛と希望の街』に比べて過激じゃないからといってそれがどうしたというのだろうと今は思う。誰に思うかといえばこの添えもの映画特集を企画した人物に。そんなこと問い求めてはいませんよと言われても何か、ねぇ。最期の最期に山田洋次大島渚のデビュー作対決って。
これから映画の世界に足を踏み入れようとしている若者が今回の特集に触れて俺なら断然オオシマ、断然アウトローといった奮いたち方をするかどうか。歴史の教科書然としているニ作品のロケ地の東京原風景を前にした今の若者の実際の反応はわからない。「自分の生れた国ってのは自分にとってのゲットーなんだな」とは『マックス・モン・アムール』の頃の大島渚の弁。まったくだと思った私は中年真っ只中の今まで鳩を売るこの様。