淋しいのはお前だけじゃないんである

先だって古書店で買った関川夏央の『水のように笑う』の文庫をパラパラめくっている内にあ、これ前読んだわと気づいた。それも随分前だ、多分80年代後半かなとも思ったが。その頃の私がどうして関川夏央のエッセイを読むきっかけを得たのか疑問に思えた。恐らく家主のエイチのおすすめだったのだろう。当時毎週末には私のアパートにコーラと柿ピー持参で現れたエイチはよく読みさしの文庫や文芸誌をわざと置いて帰った。
無理にすすめてもどうせ読まないと思ったのかいつもこっそりと置いていくのだ。そうまでして私の読書志向に手を加えたかったのかとまた疑問に思えた。恐らくエイチから見ればその必要があると思ったのだろう。当時の私は小説なら山川健一や川西蘭といった洋楽、邦楽の空気を注入したティーン向けの娯楽小説しか読んでいなかったから心配されても仕方なかったか。
あの頃エイチが黙してすすめてくれた関川夏央やボブ・グリーンを私が通過していなかったらどうなっていただろう。音楽の話になると今だ80年代パチパチロックンロール周辺のミュージシャンの話しかできない中年層とたいして変わらなかったのではないか。たまに若者らと小説の話になると「川西蘭なんて知ってる?」などと照れ臭気に問いかけ「知らないっス」と一蹴されて静かになっていたのではないか。そう考えるとあの頃のエイチの思いやりには今改めて感謝するべきなのかもしれない。
色気もソッ気もないから興味もてないと断ったナーヴ・カッツェのアルバムもちゃんと聴いていればよかったのかもしれない。あの頃のエイチは色気もソッ気もない女性アーティストに心酔していて私にもしきりにオルグしていた。それも今思えば当時の私のエログロ趣味がエイチには心配だったのかもしれない。真木よう子といえば今は女優の真木よう子だが。昭和の名女優にも真木よう子は存在するが。私にとっての真木よう子は90年代初めにAV女優として活動していた真木よう子である。家賃一万五千円のアパートに住みながら当時一万五千円もした新作ビデオを買ってしまった私の性衝動に少なからずエイチはおののいていた。今でも濃厚な趣味に変化はないが濃厚な女性と交遊したことは一度もなく今後もないかと。つまりは趣味の領域なのだ。
ところで関川夏央の中年ネタの生活エッセイは当時より現在の方が私にはリアルである。淋しくないかと言われれば淋しいような気楽なもんだねと言われればまたそのような暮らし振りはあれから20年たって今私の目前に堂々とそのベールを脱いで現れたが。