井筒さんの影踏みかけたんである

2月20日、新文芸座にて「没後10年 松竹大船の天才 木下恵介」『風花』(59年松竹)を観る。主演、岸恵子。信州の旧家の下女である岸恵子が跡取り息子と心中し一人生き残ってしまう。が、既に身籠っていた上に事情は周囲に知れ渡っていたのでそのまま母子共に使用人のまま残される。只残されるはずもなく没落していく旧家の元凶として家の内からも外からもいじめ抜かれ「もぬけのからになっても生きて」きた母子の半生を過去、現在とカットアップ構成で描く。
当時の岸恵子のメトロポリタンなイメージとは真逆をいく極貧の汚れ役である。清純派女優が文芸ポルノで体当たり演技を魅せるその後の邦画の営業方針の芽吹きのようにも。生れた息子に捨男などと屈辱的な命名を役場に届けたのが母子いじめの始まり。長男を亡くした旧家が生きのびるには愛娘が良縁を見つけるしかない。が、久我美子演じる娘と川津祐介演じる捨男は幼なじみであり成人するにつれて恋愛関係にあった。恋愛関係にはあってもフランス映画のように恥も外聞もなくすべてを放り投げた若い二人のサヴァイバル劇には展開しない。
持てる者は人目を忍んでそっと手を差しのべる。持たざる者は束の間の優しさに励まされて自力で強く生きようとするが、といったパターンにくすぶりつつ終っていくのが木下作品の特色というのか。日蔭者の起死回生などまずあり得ないが九死に一生を得た再出発のエンディングのせつない演出に胸をしめつけられずにはいられない。本作でも九死に一生の尻すぼみ感は鉄則化していてこれといった映画賞も受賞していない。しかしこの九死に一生ルールの演出術は昨今の邦画には案外起爆力発揮するかも知れないような。
デジタルリマスター版の『二十四の瞳』の劇場公開当時、東劇のロビーに終映後出てみると大学生位の娘と母親達が抱き合ってオイオイ泣く姿に直面してヒクとなった。『二十四の瞳』に号泣する今時の母娘にしてみれば『ぐるりのこと』におけるキレるかキレないかで引っ張る演出の対話劇など観るに耐えないのではと。『二十四の瞳』で号泣する今時の母娘とリアルタイムの木下作品の観客がどうつながっているのかとも。「もぬけのからになっても生きて」きた程のパンチドランクな半生に共感できる持たざる者かといえばむしろ真逆では。
持たざる者に手を差しのべる持てる者の側の今時の母娘が『二十四の瞳』を絶賛する現状を私は皮肉に感じなかった。が、それもまた九死に一生だろかと鼻水すすらざるを得ないというか。今は泣くなと捨男と共に。