いずれの意味でも尻を叩かれたんである

6月11日、ラピュタ阿佐ヶ谷にて『肉対の学校』(65年東宝)を観る。監督、木下亮。三島由紀夫原作のシニカルな恋愛ドラマとフライヤーに。岸田今日子演じる離婚成金の貴婦人が地下クラブの若い男娼にのめり込む顛末をほとんどこの一組のカップルだけを追いかける形で映画は続く。岸田今日子がのめり込む若い男娼役には山崎努が体当たりの演技を。体当たりの演技という表現も今時ないのだろうけれど本作での山崎努は体当たりである。岸田今日子とは文学座の先輩後輩にあたる。研究生時代から「何かよくわからないけど何かがいい」と山崎努を応援していた岸田今日子は本作のキャスティングにもいっちょがみなのではないか。役柄がもうそういう設定だとしても晴れ舞台に引っぱり上げた期待株を一皮も二皮もむいてやろうとする熱意のようなものが画面から伝わってくる。山崎努の方は少しとまどい気味だが必死といった。いわゆる青春スターでは全然ない。そこのところが「何かよくわからないけど」このまま不完全燃焼で終わらせたくないと岸田今日子は思ったのかもしれない。岸田今日子演じる貴婦人は山崎努演じる野良犬のような男娼を上流社会にエスコートしてやるのだがそれをきっかけに資産家の一人娘と山崎努は関係してしまう。岸田今日子にしてみれば何も自分が再婚するつもりで山崎に近づいたわけでもないしそれはそれで責任を果たしたことになるのかと思うことにする。思うことにはしたが思いきれないもやもやが映画の三分の二くらいずるずると続く。関係に行きづまった男女が背中合わせの独白を投げ合う実に60年代的なよろめきドラマである。このずるずる感というかどろどろ感みたいなものに今時の若者はどんな反応をするのだろう。まず60年代の上流社会というものが理解不能なのかもしれない。そしてそんな上流層の人々がなぜ地下クラブでゲイボーイを買いあさることに熱中しているのかが理解不能なのかもしれない。昭和四十年生まれの私の世代がそうした上流社会の狂気を何となくは認知しているのはなぜか。多分そんなものだろうと納得させられるような醜聞が身近にもあったのだ。今時のセレブ妻が亭主のバラバラ死体をゴミの日に出したりする狂気とはまったく違う。60年代の上流層は新劇同様に皆なりきり外国人なのである。若き日の山崎努はなりきり外国人を演じることが「どうしようもなく下手だった」という。本作を観ても下手だったんだろうなと思う。それでも当時の山崎努を買っていた岸田今日子の眼力がカメラそのもののような本作の生温かさにくらりと。