忘れるなら姫神。もう断然姫神。

2月21日、地元の図書館で見つけた『銀河鉄道の夜』(85年テイチク)のサントラを聴く。肝心の映画も観てないし宮澤賢治の原作も読んでいない。大学の卒論、といっても大学と呼べるもの卒論と呼べるものでもないが私の卒論は宮澤賢治。賢治作品にまともに触れたことはほとんどない。宮澤賢治に影響を受けたアーティストの作品には気安く触れたり真似したりできても源流には近寄りたがらない、と。つまり田舎パンクだ。大変申し訳ない思いで本作を中の下音量で聴いていると。いいですね風景が拡がりますとはあまり感じられず。私が何となく思い出したのは80年代半ばの小劇場の舞台で流れていたシンセの音。いやあれとは少し違うと思うが。劇団にいた頃の仲間が自宅で姫神喜多郎のシンセ音楽をうっとり聴いている様子に当時はブルった。同じ頃YMOのメンバーが『銀河』や『王立宇宙軍』などのアニメ仕事をするとガクッときた。そのくせ『プロパガンダ』の演出が黒テント佐藤信なのは仕方ないかとも。姫神せんせいしょん。はっぴいえんど。どちらも忘れたいとは今の私は思わない。忘れるなら姫神。もう断然姫神。本作は、本作というのは細野さんの『銀河鉄道の夜』のサントラのことだが前半と後半で大分空気が違う。物語は前半の現実世界と後半の銀河鉄道に乗り込んでからのファンタジーとに二分されていて音楽もそのように作られているとか。『銀河鉄道の夜』をいずれまともに観るなら公民館か図書館がいい。ところで本作には『銀河鉄道の夜』のボーカル入りのテーマ曲は入っていない。あれはプロモーション用のマスコットみたいなものだったかと。キャラもの作品の宣伝キャラになったアイドル歌手何て言ったっけかなと押入れにもぐり込み探究すること小一時間。あのドーナツ盤がない。同じ頃に買い漁ったアイドル盤の何枚かには「三百円也」などとフェルトペンで名札シールに自筆で。自筆というのは私の自筆のことだが。何で当時こんなことをしたかというとその頃参加していた貧乏劇団が資金繰りに古物市を開くというので私もけっこう無理をしたのだ。今手元に残っているのが「三百円也」の名札シールが貼られた三田寛子の『夏の雫』かと思うと大後悔。悔んでも悔みきれないので今の自室にレコードプレーヤーが導入されたあかつきには『夏の雫』を真っ先に大音量で聴いてやろうかと。20代後半にGS熱に沸いた私の音楽脳と呼べるほどのものでもないそれが40代後半にアイドル歌謡に再沸騰するのはほぼ間違いない。不安タジーな旅へと再び。