客席にただ一人宝島系ファッションで

上野駅池之端近くのツタヤに寄るとサブカル漫画コーナーに蛭子能収根本敬らと並んで山田花子の『改訂版 魂のアソコ』があった。これを入手してしまうと私の元には山田花子の著書はすべて揃ってしまう。そうなるともう触れたことのない山田漫画は一巻もなくなってしまう。だが没後21年目に出くわした何といっても『魂のアソコ』なのだから観念して購入した。『魂のアソコ』というタイトルは山田花子が残した舞台脚本を他界直後に上演した時のものだったはず。劇評を読む機会はなかったがどこかのサブカル詩の編集後記に紹介されていてまたものすごくくだらないんだろうなァなどと書かれていた。その一文にはまだ少しの親愛が感じられた。当時私と同じ小劇団に参加していた後のDrエクアドル氏は本名で『シティーロード』のお便りコーナーに追悼文を寄せた。初めて有名人の死に衝撃を受けた、これからも決して賞賛されることのない彼女の作品よ万歳といった内容だった。私の読んでいる山田花子への追悼文の中では一番しっくりくるというか感じがいい、悪いで言ってしまえばいい追悼文だった。本作、『魂のアソコ』の中で一番おもしろく読めたのは90年にヤングマガジンに連載していた風俗コラム『山田花子のバッチリ行こうぜ!!』である。渋谷道頓堀劇場に編集者の男と潜入する回はとくに楽しい。客席にただ一人宝島系ファッションで観劇する婦女子である著者に周囲の男性客が「見える?」などと気をつかう空気はよくわかる。ストリップ通の男性客はこういう婦女子をデビュー前の研修生と思って応援したくなるのだ。その日の山田花子はベテラン舞姫、瀬利加嬢の花電車に感激する。花電車とは女性器を使って吹き矢を飛ばしたりタコ糸を引っぱって果物を切断したりする芸のこと。その前に登場した芸のない新人の舞台をずばり「持ってるものをそのまま見せるだけ」と評するくだりに山田ワールドを感ず。若い身空でやりてお婆の人生訓のようなことがずばりと言える山田花子は薄弱な感じはまるでない。自分のイメージに飲み込まれそうにならないかと問われて全然ならない、アイドルなんてもっとやってるしと応えた時の尾崎豊と同様だ。この頃の山田花子はへなへなで弱くはなかったのだ。正確にはこの風俗コラムを書いていたその時は薄弱ではなかったのだ。しかしくだらない。いい若い者が昼の日中にまったく何を。今ではさほど珍しくもないそんなぐうたらな腐女子コラムのはしりかとも。Drエクアドルの世界同様このくだらなさには不思議と力づけられてしまうような。