そして阿久悠も二作品を提供している

10月4日、坂本スミ子ファースト・ゴールデン・アルバム『夜が明けて』(72年ソニー)を聴く。『たそがれの御堂筋』、『夜が明けて』などのヒットによりオスミの愛称で親しまれていた流行歌手時代の坂本スミ子の初アルバム。タイトル曲『夜が明けて』のヒットの余波で制作されたであろう本作に参加する作家陣は『夜が明けて』の作詞家、なかにし礼の他に永六輔岩谷時子、そして阿久悠も二作品を提供している。なかにし礼作品のヒットの余波で制作されるアルバムに阿久悠が起用されるところに何か思惑めいたものを感じるが。阿久悠はそうしたアウェーな対抗馬的起用のされ方にむしろ本領を発揮する作詞家である。が、本作の阿久悠作詞『ふたりは若かった』は作曲も筒美京平と『夜が明けて』と同じ条件ながら『五番街のマリー』や『ジョニーへの伝言』に近い黄昏ムードの地味な曲で添え物的だし『港まつりの夜はふけて』は山本リンダ夏木マリに書いてきたラテン歌謡の延長線上にある感じ。他方で上手くいった静と動の技法の使い回しであり全面対決を避けているような。そんな弱腰を見すかしたように本作ではなかにし礼訳詞の『別れの朝』までオスミに歌わせている。別に訳詞したなかにし礼が歌わせているわけじゃないが制作側はなかにし礼に軍配を上げたがっている感じが。ライバルをホームに招聘しておいて一歩も引かないなかにし礼も強者だが『別れの朝』が洋楽カバーだと初めて知ったようなそういえばそうだったような。そのくらいなかにし礼の訳詞は耳なじみがいいのだ。『別れの朝』の訳詞は登場するふたりがさめた紅茶を飲み干す始まりからふたりが一人になりちぎれるほど手を振り“あなたの目を見ていた”結びまで起承転結が明確である。結び方も歌謡曲調にフェイドアウトさせずぼかさず誰が何をどうしたか翻訳小説と同様に明確に描く。その方が訳詞は収まりがいいのだ。ポエティックにぼかすと音声多重気味になり耳なじみが悪くなる。仏語で書かれた小説を英訳したものをさらに和訳したような。ポエティックにぼかすというのは訳者の持ち味も加えてみるということだろう。するとどうなるか。『監獄ロック』の“粋な看守のはからいで”のような異様に時代性の強いもう二度とは繰り返したくないものが出来上がるのである。訳者の持ち味などはいらない。原詞に味は充分ついているということを作詞家デビュー前から熟知していたなかにし礼の凄腕に本作ではいいところがなかった阿久悠。その後の阿久悠は訳詞ものには手を出していないのではないか。