そんなことを馬鹿正直に語る人物も

4月4日、山田太一 著『月日の残像』(新潮社)を読む。本書は著者が季刊誌『考える人』に05年冬号から13年夏号まで9年間連載したエッセイを単行本化したもの。1934年生まれの著者の七十代がほぼすっぽり収まった35編のエッセイの中で印象的なのは第4回の『減退』。「減退」とは「長いこと、異性を見ると、反射神経のように性欲で分別するところがあった」著者の内面と肉体が「その針が動かなくなった。鈍くなった。どうでもよくなった」と自身の脚本の台詞回し同様に切実なテンポで明かされる性的欲望の減退を指す。そんなことを馬鹿正直に語る人物も珍しいが山田太一らしいクローズアップかとも。『ふぞろいの林檎たち』の中井貴一をはじめ山田作品には馬鹿正直な男が俗人なら回避する家庭の事情にあくまで誠意から強引に立ち入って思いがけず問題解決の糸口が見つかり感謝される展開が多い。「減退」でもまず馬鹿正直な老いの告白で読者を半ば呆れさせてから高校時代に温泉場で二つほど年上の女友達と裸で鉢合わせて往生した回想へと続くのだが。山田太一より三つ年下になる作詞家、阿久悠が97年に発表した『書き下ろし歌謡曲』(岩波新書)のなかの一編に「ぼくといとこの甘い生活」という詞がある。「もしかして/あなたは/ぼくのいとこのユリさんですか/ぼくです/ぼくはその/あなたのいとこのタケシです/十年も前に一度/親戚が集まった時/一緒に風呂へ入ったタケシですよ/思い出してくれましたか」といった内容の詞のなかで60歳の阿久悠が回想する過ぎ去りし憧憬は山田太一が「減退」のなかで回想するメロウな修羅と重なるような。『書き下ろし歌謡曲』にはそのものズバリの「セックスレス・男の言い分」なる詞もあって「何しろ/男は/駄目になることがある/駄目になるかもしれないことに/怯えつづけている宿命だから」とこれも馬鹿正直な本音を阿久悠らしく綴っている。一方、山田太一は自身の体に始まった減退を「日本の社会に性欲の減退があるのではないか。社会が性の過剰より性の減退の意味を探りはじめたのではないか」とやや強引に結ぶが。おおよそ時代と寝た作家という立ち位置においては山田太一より阿久悠の方が数倍似つかわしい。その阿久悠ですらそこまでは言わなかった大言にただ呆れてばかりもいられないような。今日までの成熟社会も生身の人間同様にやがて老い始め減退し始めるのは道理かもしれない。そうかといって思いがけない性的時代の再来というのももうあまりわかりやすい形で迎えたくない気もする。