けれどその点は百も承知と思われる

10月13日、茨木のり子 作 山内ふじ江 絵『貝の子プチキュー』(福音館書店)を読む。本書は詩人 茨木のり子が生涯において唯一残した絵本の仕事として知られている。が、もともとは茨木のり子放送作家時代に書いたラジオドラマの脚本を絵本向きに再構成したもの。その脚本も『茨木のり子集 言の葉』(筑摩書房)で現在も読むことができる。ラジオドラマを絵本に起こしたことで有利な点といえば舞台である海の底を音声だけの表現より格段魅力的に描けること。逆に不利な点といえば主人公の「小さい小さい貝の子供」であるプチキューが絵本の世界では幾分地味で貧相にしか描けないこと。山内ふじ江の絵はどちらかといえばリアリズム調でプチキューもあまり可愛らしく描かれていない。そもそも貝という生物自体が人間の眼で見るかぎりエロティックな容姿でありもっといえばグロテスクであり児童文学向きではない。けれどその点は百も承知と思われる山内ふじ江のタッチはプチキューに擬人化したパッチリお目々を描き加えることもせずエログロなるままの貝の子プチキューを出ずっぱりにする。本書が茨木のり子にとって最初で最後の絵本になったのは偶然か必然か。思うに別段門前払いもいとわない新天地ではなかったか。児童文学というジャンルは詩人にはわりと開かれた副業である。が、副業なのにやいのやいの言われたくもなければ本業にシフトチェンジを願うでもないのなら自然と挑戦的な内容のものにもなるだろう。本書が他の児童文学と異なるところは主人公のプチキューがかにの子とけんかの最中に絶命するところ。そのプチキューの死がいをかにの子が「むしゃむしゃ たべてしまった」ところ。そして物語が主人公の死後もほんの少しだけ続くところ。このような内容の絵本を幼年期に母親から読み聞かせられたことがある児童とない児童ではその後の人格形成にへだたりが生じるような気はする。それが良い影響か悪い影響かはわからないが。私は本書が図書館のお話会などで読まれる場面にまだ出くわしたことがない。何やらちょっとした禁書のような感もありそこが茨木のり子らしいとも感ず。「プチキューは しょっぱい 味でした おいしかった」というくだりは残酷でもありコミカルでもあり茨木のり子だけが書ける際立つ生活の匂いがある。とりわけ「プチキューが しんだのを しっているものは だれも いません」という結末なぞは命の重さを伝える授業のテキストならば何とぞこちらをと昨今のでもしか先生に嘆願したくもなったが。