それでもけだし名曲は名曲である

5月5日、なぎら健壱『ベストアルバム 中毒』(95年 FOR LIFE)を聴く。本作はフォークシンガーのなぎら健壱が73年から95年までに残した音源の中からお笑い寄りの企画盤を中心に編集したもの。“再発発起人”として高田文夫がクレジットされている。そもそも高田文夫のラジオ番組で紹介されたなぎら健壱のあまり売れなかった過去作が反響を呼んだことが本作が世に出るきっかけだそう。私はこれまで日本フォーク史の語り部としてのなぎら健壱には耳を傾けながらもその音楽性には正面から向き合っていなかった。これを機会にと本作を入手したのだが。フォークシンガーのなぎら健壱にとっては自己宣伝的要素の強いお笑い寄りの企画盤だけではその音楽性に正面から向き合ったとは言えない気もする。いずれU.R.C時代の音源も聴いてみたい。お笑い寄りの本作を一聴した感想はなぎら健壱という人は常に便乗の人なのだということ。初期のヒット曲『悲惨な戦い』は相撲中継の際中にマワシが外れた椿事に便乗したものだし『オクラホマミキサー』や『マイムマイム』に世相ネタの自作詞をつけた曲も当時のフォークダンスの定番に便乗している。今となっては貴重なさいたまんぞうとのデュオや上田馬之助の応援歌『男は馬之助』もその時代の人気者に便乗している。駄菓子、貸本、ブリキ玩具などに代表される昭和の下町文化の語り部としても知られるなぎら健壱にとって類似品であれ歳月の経過とともにそれはそれでレアな値打ちがあると持ち上げる好事家はいる。そうした好事家からの支持を期待してなぎら健壱は一連の企画盤を発表し続けてきたのかどうかは分からない。が、売れてもいない頃からこうしたお笑い路線を恐らく歯を食いしばりひた走ってきたそのスピリットは大瀧詠一にも通じるものがある。ざっとその苦闘のディスコグラフィーを聴き通してもやはり私には『一本でもにんじん』が楽曲的にも最高傑作だと感ず。さすが「日本一売れたB面」だけのことはある。と、思えばよく聴けばこの曲は同じ75年にヒットしたかまやつひろしの『我が良き友よ』に極めて類似している。便乗の人、なぎら健壱どん底で追いすがり実利のない特大ヒットを飛ばしたきっかけが同じ苦労人のムッシュの復帰作とは。それでもけだし名曲は名曲である。暮れの紅白歌合戦にて『いっぽんでもニンジン』を何のきっかけもなくさも当たり前のように歌うなぎら健壱の姿を観たいと私は願う。