もう何もするなと、只じっとしている

6月4日、平田オリザ 著『わかりあえないことから』(講談社 現代新書)を読む。本書は劇作家であり演出家でもある平田オリザが近年大阪大学コミュニケーションデザイン・センター客員教授となり様々な現場でコミュニケーション教育に携わってきた体験から“コミュニケーション能力とは何か”をひもといたもの。コミュニケーション能力なるものはそもそも何か。コミュニケーション能力が低い若者とはどんな若者か。それは平時こちらの話をあまり聞いていない、自分の意見をあまり言うこともない若者のことらしい。そうした若者が増え続けるのは国家レベルの難題でありそれを防ぐために演劇人も知恵を出さねばならぬご時世らしい。コミュニケーション能力の低い若者が増え続けると学校でも職場でも会話はちぐはぐになりいわゆる回していけない状態に陥って停滞してしまうのでこれを改善し回していこうという訳だが。子供も若者もその国のその時代の鏡のようなものでありKYでコミュニケーション不全の若者が増殖する社会なのではと私は思う。もう何もするなと、只じっとしてろ、後はそうっと生きろという時代に我々はたどり着いてしまったのではとも思う。思うがこれを放っておけばさらにKYな若者、KYな働き手が世間に溢れ私たちが一歩外に出て2人を使うとき、金を使うとき必ずや不愉快な思いをさせられストレスフルな社会になることは予想できる。本書で著者が予想というより警告しているのはあとがきに近い第八章「協調性から社交性へ」の中の“わかりあえないことから”に記された一行だろう。「わかりあう、察しあう古き良き日本社会が、中途半端に崩れていきつつある。私たち日本人も、国際化された社会の中で生きざるをえない」というくだりに込められた祈りのようなものには只うなづくしかない。あとがきにあるように「しかし、幸いにして日本は、荒い海と、日本語という高い障壁に囲まれて、明日にも移民、難民が殺到するという国ではない」が、そう遠くない将来にはお隣さんは戦争難民か終末論者かといった非常が日常化する可能性はあるのだ。そのとき誰が肉の壁となり不測の事態に備えるのか。KYな若者か。しかしあまりKY過ぎては国防にも破壊工作にも役に立たないのではないか。いずれにせよ飲み込みの早い健康な若者をより多く獲得した側が近未来を支配する。だとしてもそうした若者を心酔させるほどの絶対的な神秘が二十年、三十年後の地上にまだ残っているのかどうか。