本作ではこの田中眞紀子ギャグが定番

5月14日、町田康 著『猫のよびごえ』(講談社文庫) を読む。04年から刊行されてきた著者の猫エッセイも13年に終了しこの度文庫化されたこれが本当の最終巻。前作『猫とあほんだら』のあとがき始めに「伊豆半島で毎日、猫と遊んで暮らしている。というときわめて気楽な人生のように聞こえるが、実際のところは・・・きわめて気楽な人生である」とあった。が、もうそれも終わりというかもうこんな気楽な人生を報告し続けるのは後ろめたいような厳しい世相を予見しての幕引きかもしれない。拾い猫やもらい猫ばかりを細心の注意とケアで多頭飼いする町田家は猫界の素人の私には猫界の完璧な玄人に見える。が、それでもわずかの不注意から瀕死の猫を救えなかった後悔と懺悔が本作には記される。佐野洋子のエッセイ集に『私の猫たち許してほしい』という表題があったが愛猫家は皆同様の背徳感に陥るよう。「そしたら怒りよった。誰が?自分をママだと思っているシャンティーである。相変わらず、ファックスのうえで蛇のような、どこか田中眞紀子衆議院議員に似た眼差しでこの成り行きを見守っていたシャンティーは」とのくだりにはつい笑ったが。本作ではこの田中眞紀子ギャグが定番として散りばめられる。そもそも和猫というものは皆田中眞紀子のようなお呼び眼をしている。田中眞紀子とその時代の訪れも著者は予見しているのか。田中角栄とその時代は現在あちこちで回顧されているが。現在の高級ブチャ猫ブームが大衆和猫ブームへ路線変更する頃にあるいは田中眞紀子の時代も到来するのかもしれない。私が個人的に感じの悪いおばはんだなと感想を持つパートタイマーの多い某コンビニエンスの雑誌棚では現在角栄本とブチャ猫本を大プッシュしている。その点を私は個人的に警戒している。もしや田中眞紀子の復活劇のシナリオは完成し本読み立ち稽古の段階にあるのではないか。やるやると騒ぎたて結局やらなかった復活劇といえばニコラス・ケイジの『スーパーマン』と高嶋政伸の『若大将シリーズ』がある。ニコラス・ケイジの『スーパーマン』なぞやれば最高に笑えたかもしれない。が、やってしまえばもう後が続かないばかりかそれまでのシリーズ全体の威厳も水の泡である。そこのところのボーダーを迂闊に先走る制作者はハリウッドよりも邦画界に多いと思う。猫エッセイというジャンル全体の大衆化、卑俗化を先読みしスノッブなままに幕を引いた著者の英断にシャポウを脱いでおきたい。