著者と同世代の私には黙々と読ませる

8月20日、スージー鈴木 著『サザンオールスターズ 1978-1985』(新潮文庫)を読む。本書は66年生まれの音楽評論家である著者が小学生時代から聴き惚れてきたサザンの魅力と足跡について検証したもの。著者と同世代の私には黙々と読ませるもうひとつの″ニッポンの音楽史″である。著者が「本書執筆の最大の動機」とする78年6月25日に発売されたサザンのデビューシングル『勝手にシンドバット』こそが日本語によるロックに革命を起こした史実を後付けせず盛りもせず記しておきたいという信念に同世代として共感する。本書の中で著者が問題視する「はっぴいえんど中心史観」をこれまで私は否定しきれずにいた。が、本書を読んで考えが変わったというより奇妙にふっきれた。結局「はっぴいえんど中心史観」の人々は日本語によるロックの教科書を作りたがっている人々であり私の世代にそうしたものは必要ないのだ。教科書が頼りになる後の世代への影響などもあまり心配ではない。今日、教科書を作りたがっている人々がこのままでは心配だからそうしているのだとしたらそれは何が心配なのかとは思う。『勝手にシンドバット』の詞世界の革命性は「胸さわぎの腰つき」にあると語り継がれている。意味が通じないと止める制作部を押し切って生まれた名フレーズを著者は分析する。「歌詞の文脈を追えば、その『腰つき』をしているのは『あんた』だから女性だ。女性自身が『胸さわぎ』をしながらの『腰つき』なのか。そもそも『腰つき』って何だ?」 続く「江ノ島が見えてきた 俺の家も近い」では「前衛的で意味不明な歌詞世界の中で、唯一、具体的な情景情景が広がる場面であると著者はイメージする。多くの人はこのくだりで「俺」は何か乗り物にのって移動しているのだなと思うかもしれない。が、私には「俺」は初めから終わりまで場末のサパークラブのフロアに潰れかけているのだと感ず。床に突っ伏してゲエゲエやりながら頭上で踊る女たちの胸やら腰を見上げているのだと。当然江の島など見えてきてはいない。「俺の家も近い」というのは本来ならば家でやるべき粗相が上から下からもう止まらない己の醜態を打ち消しているのだと。本書の冒頭で著者が「J-POP」のキーパーソンといえる3人と断言する「松任谷由美山下達郎、そして桑田佳祐」の中で最も教科書受けしない人物は誰かといえばそれは言うまでもない。が、78年夏、ピンクレディに飽き始めた多くの小学生がその人物の体現する日本語によるロックを一斉に習得していた。