といっても映画自体が既に楽屋おち的

8月14日、小林雄次 著『モリのいる場所』(朝日文庫)を読む。本書は5月に公開された沖田修一監督の同名映画のノベライズ。著者は日大芸術学部卒の脚本家で以前にも映画ノベライズを手掛けている。同じ日芸の沖田監督の後輩。映画の録音を担当した山本タカアキも日芸の一番先輩だそう。大学時代の先輩後輩が商業映画に再び集って仕事をするなど今の時代には果報な出来事。映画にもそんな果報な夏の一昼夜が綴られ好感が持てた。映画ノベライズなるものが普及したのは割と最近では。大概は監督や脚本家が自作への思いたっぷりに本筋をあれこれふくらませて楽しませようとするのだが。映画に好感が持てた読者以外にはそれが却って興醒めすることも。著者はその辺りの地雷を踏まずに本書を楽屋おち企画から一段押し上げた感。といっても映画自体が既に楽屋おち的なのだが。70年代半ばの東京池袋の雑林に妻と暮らす94歳の画家、熊谷守一のもとを訪ねる人物たちの交差をたった一日切り取った群集劇。国民的芸術家ながら周囲に仙人呼ばわりされつつも静かに暮らすモリこと画家、熊谷守一の広くもない家には来客が絶えない。画商、画学生、後援者、不審者がまとめて押し寄せてモリ自身はされるがまま。但し夜8時から画室にこもる際は妻ですら面会謝絶。94歳の巨匠の描く小宇宙的作品は映画にはあまり登場せず身内といえば身内のような人々が織り成すドタバタコントが延々続く。ノベライズではその身内のような人々それぞれの視点からリレー式に映画を再生していく。来客のみならず文化庁の役人、昭和天皇のみならず郵便局員土建屋のみならず庭に住む蟻まで、更には庭そのものまでが自身の視点からのモリの人物像を語る。なかでも蟻の語る章の「最後に人間である読者諸君に警告しておこう。自然を甘く見ないことだ。自然を破壊したり保護したりできると考えるのは、人間の驕りである」というくだり。何だか藤原新也みたいなことをいう。同じ朝日文庫からこれまで出版された藤原新也のエッセイを読み返すことも私にはなくなった。70年代半ば、宇宙船地球号なるスローガンを掲げて起きた日本のエコロジー思想もすっかり下火のよう。半分コントと受け取られても引き続き御愛顧いただきたくという売り声に呆れるならば私にも昨今云われる朝日アレルギーは始まっているのか。正直、半分コントならばまだその「場所」にも商品価値はあると思う。かっての映画学生による今度はちゃんとお金のとれる卒業制作の完成に拍手を送りたい。