新たな名門作りに一役買って後に恩を

8月17日、西村賢太 著『夢魔去りぬ』(講談社文庫)を読む。本書は15年に単行本『痴者の食卓』として刊行された短篇小説集を改題し文庫化したもの。新たに表題作となった『夢魔去りぬ』の主人公、北町はテレビ営業にも色気を見せる人気作家。ある番組への出演依頼が「薪潮社の或る雑誌の編集部を通じて」届く。自身の卒業した小学校で自身発案の課外授業を開くという設定のその番組に「何しろ私は性犯罪者の倅である」北町はとまどいながらも出演を決めるが。制作側の「熱意と誠実さは、これは何だかすさまじいものがあって」北町をおののかす。なぜそこまで「いい番組」にしたいのか。新たな名門作りに一役買って後に恩を売りたいのではと疑う私も放送されたその番組を楽しんだのだが。「夢魔」というのは北町が度々見るという「多分、どこぞの学校の中なのである」その異空間を自身がさまよい歩く夢のこと。先々どうなるものやらという不安の現われが会社経営者やフリーランスの人間がよく見るといわれるそのような夢をアンダークラスにあたる私も年中見る。その日母校を訪れた北町は校舎の階段こそが執拗に夢に現れるあの階段だったかと合点が行く。「それがまさかに、実際に自分が通い、そして一切合財の記憶を閉じ込めていたこの小学校のものであったとは、今のそのときまで、まるで気付かぬことだった」と思い知るもだからどうということもあるまいと気持ちに区切りを。性犯罪者云々という自身の当初の売り文句にそろそろ決着をつける作品を書ける自信がついたのか「これならば、こと自己の痛みについては恰も他人事のような涼しい顔でもって筆にのせることもできるに違いない」とこの度のテレビ営業に感謝する格好でこの一篇も終わる。「わたしのお父さんは、昔の北町さんのことを知っているそうです」、「―ぼくも、あなたのお父さんのことは覚えてますよ。どうかよろしくお伝えくださいね」という北町と女子児童の放送されなかったやりとりからもやはり「いい番組」にしようとする空気は伝わる。が、ふいに私はバブル期のある深夜番組を思い出す。代理店の宣伝会議のようなセットに広告マン志望の素人衆を招いて企画をプレゼンさせ、玄人衆がくそみそにけなすというその不快な番組と本作に登場する番組とは上から視線でお手並み拝見しながらも使えるネタはいただこうとする制作側の狙いはまったく同じでは。北町はあのように見えて実は百戦錬磨の営業マンである。