観客層は評判通りおじさんと女のコが

12月9日、昭和女子大学にて大森靖子の『クソカワ PARTY』TOURを観たがもう二ヶ月前のことなのでアルバム『絶対少女』を聴きながら印象に残っていることなどを記す。観客層は評判通りおじさんと女のコが大半。おばさんと男のコが寄り付かない実情は読み取れなかったが舞台効果の中世の首狩り鎌と巨大熊の着ぐるみにはわかる者だけわかればという居直りを感ず。『絶対少女』のジャケ写は蜷川実花。暮れの紅白で椎名林檎宮本浩次のコラボを観た私はたじろいだ。もうこうなるとロックでも何でもないんじゃないかと。もうこうなると「世界のニナガワ」みたいなものじゃないかと。「世界のニナガワ」は世界でやればいいじゃないかというのが言いくるめならば紅白歌合戦は今や世界に届いているというのも言いくるめでは。それも時間の問題だとしたら椎名林檎宮本浩次のやっていることは時間稼ぎである。現在諸事情あってメディア露出にムラがある大森靖子もそれに続く援護射撃をやっているようにも感ず。「だからSEKAINOOWARIより 終わってるわたしにできること」とはいえセカオワの何倍も充実しているようなバンドの佇まいの方が印象的で大森靖子のそれは過酷なルーティーンにしか観られなかったが。それでも熱心な声援を送るファンと大森靖子のつながりはルックスもダンスも十人並みでも人当りだけで固定ファンをつかんでいるストリッパーとそのファンのつながりに似ている。おばさんと男のコの来るところじゃないのは当然だったか。「いつかは仲良くしたいけど」当分の間は徹底抗戦だというようなことを宣言していたその対抗勢力の中には男のおばさんのような私も当然含まれるのか。私が初めてNHK大森靖子を観たときは飢えと渇きをヒステリックに演じているその佇まいにたじろいだ。何にヒステリックになっているのかといえば恐らく飢えても乾いてもいなければ怒ってはいけないのかという始末に負えない怒りがそこにはあるのだ。それは私が蜷川実花のアートワークを初めて見たときの印象と似ていた。アジア版ディズニー産業のように制作費はかけてはいてもどこか安価な印象はそれが何かの埋め合わせのつもりだからでは。何を埋め合わせたつもりなのかはおじさんと女のコだけでパーティーを繰り返している間はわからないと思うが。あるいは何も埋め合わせてはいないのかもしれない。終演後はすみやかに帰っていくおじさんと女のコたち同様に私もひとしきり楽しんだ後はただ帰りたいだけだったのだ。