そんな投げやりなラストも時代の気分

 

5月15日、ジョージ秋山 著『ドストエフスキーの犬』(青林工藝社)を読む。本書は漫画家、ジョージ秋山が70年から79年まで発表してきた作品を8編収録したもの。表題作の『ドストエフスキーの犬』は79年作品。冒頭には夕日に向かって家路を急ぐ主人公の淳少年の後ろ姿が。路地にはポリバケツ、垣根にはバリ線。同時代の少年漫画の背景よりどこか緊迫感が。日常の何ということもない場面に奇妙な緊張感が入り混じるのが著者ならではの作風だがもっと大まかな時代の気分そのものがそんなまだらな不安を抱えていたのでは。淳少年の愛犬ジロがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をお薦めだよとどこからかくわえてきた日に父親の遠縁にあたる勝三が就職の世話をしてもらうため訪れてしばらく同居することに。「出世しなきゃ秋田へは帰れねえす」と張り切るが。集団就職の時代は過ぎてもツテをたどって都会に職を求める若者は増え続けていた。「ひと山当ててよ、がっぽり金を稼いで帰らにゃあよ」と言うがこの時代にひと山当てるには何をすればよかったのか。ピンクレディやスーパーカー関連の違法グッズでひと山当てた猛者もいたかも。まだその辺り法の網目も荒かったが、一端捕まってしまえば石竜子の尻尾という面もあった筈。昨今の詐欺事情とあまり変わらないのでは。当時流行った「ハードボイルド」という用語は正しく和訳するのは難しいらしいが今時の「ブラック企業」と近いニュアンスだったのかも。勝三が近所に住む女子高生のお美代ちゃんに乱暴しかけて止められるも家族からは「若い頃にはよくあることよ」と喧嘩両成敗のようなことになるのも時代の気分か。住宅事情のせいで若夫婦と年頃の男女が襖一枚隔てて同居するなど当たり前だったし気まずい場面は日常あった。私なども小学生の頃に目の前で下着一枚になった友だちの母親の姿を今だ覚えている。幼年期の記憶は後に都合よく脚色されるというがどうも金井克子似のその母親は私を乱暴しかけていたものと思われる。口では大きなことばかり言っていた勝三はその後も転職と居候を繰り返したあげくあっけなく自殺してしまうのだが。そんな投げやりなラストも時代の気分が成立させていたよう。巻末のインタビューでは「才能で手を抜くんだよ」と語る著者の画風は70年代的な捨て鉢な感覚を代表するようでそこが魅力なのだが。まだ売り出し中の当時、手塚治虫には気持ち悪いほど可愛がられたというエピソードも何やら興味深い。