作画も台詞も全て手書きゆえに

 

9月12日、東陽片岡 著『コモエスタうすらバカ』(青林工藝舎)を読む。本書は『プレイコミックプレイコミック』誌に08年から11年までに掲載された作品を収めたもの。毎回四頁一話完結で背景も台詞も全て手書きというスタイル。登場するのはいずれも時代から取り残された貧民区に暮らす老若男女。著者は90年代よりこのスタイルで一部で人気を博してきた。90年代的なジャンクで生き過ぎた表現を今になって問題視する空気の中で東陽片岡は今もなぜセーフなのか。作画も台詞も全て手書きゆえにそのマイナー感というか便所の落書き感は良くも悪くも安定し続ける。『悲しみのシャバドゥビそば』ではあの松鶴家千とせとおぼしき人物が立ち食いそば店のカウンター内でふらりと寄った安サラリーマンとしばし友情をた温める一篇。「俺がヤクザだった頃、オヤジはキョーザで、オフクロはネンザだった。解るかな?解んねだろうな」というギャグを08年の若者の何割が理解できるかどうかは実は問題ではない。肝心なことは90年代のみうらじゅんだけが奥村チヨを当時の若者の前にエスコートできたように東陽片岡だけが松鶴家千とせエスコートしても無罪放免ということである。何を生業にして生きてるかわからない中年男の身分証としてのレイバーン。嵐ヨシユキ横山剣の男振りに半笑いでもうなづけるかつての若者層も今やミドルエイジである。いつの間にか本書に登場するショボクレ男たちと大差ない生活水準に良くも悪くも安定してしまった彼等も「サザンと言えばサザンクロスですな」と『足手まとい』を愛唱しているだろうか。『はぐれタクシー湯の町編』に登場する中年コンビは勤め先のタクシーの営業車を略奪して加賀温泉郷に逃亡し「金が無くなったら現地で勝手に営業すりゃいいんだもんな」と一瞬妙案に思えそうな暴挙に出る。「そんなの知るけえ。今が楽しけりゃそれでいいじゃねえか、この野郎」と意気がる様は90年代のジャンクな若者像に重なる。が、そんな事件は明日にも起きてしまいそうではある。探偵濱マイクを演じていた頃の永瀬正敏と現在の永瀬正敏ではどちらが良くも悪くも安定しているかといえばやはり現在だろうか。80年代の根本敬蛭子能収などのへたウマ漫画の流れにあるようでないような東陽片岡の漫画は花村萬月の小説というより極貧時代の悪行コラム同様に90年代を思い出させるもの。それらがまだ面白いと感じる自分は結局不真面目に馬齢を重ねてしまったよう。反省の意をこめて既刊本をまたもう一冊。