私を『浅川マキの世界』にエスコート

9月14日、きたやまおさむ 前田重治 著『良い加減に生きる』(講談社現代新書)を読む。本書は精神科医であり作詞家であるきたやまおさむが先輩格の精神科医である前田重治と過去の作品について語ったもの。『あの素晴らしい愛をもう一度』や『戦争を知らない子供たち』などの代表作から『初恋の丘』や『積木』などの隠れた名曲まで20曲が紹介されている。浅川マキが70年に発表した『赤い橋』を前田重治寺山修司作品とばかり思っていたそう。北山修によると本作は深夜放送の創成期に自身も番組を担当していた頃に誕生したそう。言われてみれば深夜番組が深夜番組らしかった時代の空気がある。私が本作を初めて耳にしたのは中学時代に夕方よく聴いていた武田鉄矢のディスクジョッキー中であった。私を『浅川マキの世界』にエスコートしたのはあろうことか武田鉄矢というのは永くトラウマであり後に博多時代の海援隊はジャックスのコピーでならしたアングラフォークグループと知ったことは更に追い討ちをかけた。堺正章が71年に発表した『さらば恋人』を前田重治は同年に尾崎紀世彦が発表した『また逢う日まで』と比較する。阿久悠作詞による『また逢う日まで』は「晴れ晴れとした大声で堂々と胸を張って歌われて」いるのに対し『さらば恋人』は「すこし異色で、すこし暗い」という。どちらも別離の歌であっても『さらば恋人』は置き手紙を寝顔に添えて意図してすれ違うが終結しない。『また逢う日まで』は共にドアを閉め名前を消して意図して向き合うが終結する。北山修にとって本作は曲も編曲も完成した段階に歌詞を乗せるだけという歌謡曲のシステムに反発を感じて作詞に見切りを付けた作品だという。阿久悠にとっては作詞家としての成功を決定づけた作品でもあるができればレコード大賞よりも作詞賞が欲しかった作品だという。70年代初めに作詞家の権限はこうも限定されたものであれば現在はどんなものか。詩を聴いただけでいかにも誰某風などとは気づかないのも当然か。阿久悠の著書『生きっぱなしの記』の第一章のタイトルは『戦争しか知らない』である。終結させないのが強者で終結させたいのが弱者と言いきれるかどうかだが互いの立場はある場面ではあっけなく入れ替わることもある。終わりが近付いても立場に執着する姿こそが愚かなのだ。晴れ晴れとした新しい別れなどあり得ないというのはクールな実感である。が、意図して新しい別れを演出した『また逢う日まで』の強引さにも恐らく当時誰もが気付いてはいたのだ。