80年代初め、まだ自前のメイクで

4月2日、忌野清志郎 著『ロックで独立する方法』(新潮文庫)を読む。本書は忌野清志郎が音楽で独立したい若者に向けて語り下ろしたレクチャー本である。が、09年に清志郎が亡くなるまでに単行本化は叶わなかったもの。構成はRCサクセションの全盛期のタレント本『愛しあってるかい』を手がけた山崎浩一。第一章の「わかってくれない世間が悪い」の中で若者には早く自分の個性を見極めるように説く著者。それができないと「やっぱりみんなが聴いてるビートルズあたりを安易にコピーして、そのまま行っちゃうと「チューリップ止まり」かなって感じだったかもしれない」と自身を振り返るが。「チューリップ止まり」の表現はいつの時代も脈々とあるのでは。チューリップが江口洋介になろうと福山雅治になろうとそれを追いかける聴衆にしてみれば本当にいいと思って金を払っているのかどうかなど大きなお世話である。けれどそれらを放置すれば売れない音楽は作らせてもらえない状況は更に増幅してしまう。「チューリップ止まり」をどうするのかという問題はローカリズムの問題なのだ。先進国の代表の顔が皆とって付けた田舎紳士然としていくように地方にいい顔をし続けなければ中央の台所は維持できないのである。本書の著者近影に見られる晩年の清志郎の面影はとっつきにくい整体師か創作料理の匠といった印象でありいかにも東京が片田舎だった時代に育った顔である。他人に媚びず自分が面白いと思う作品だけで百万枚を稼ぎ出すのが生涯の理想と語る著者にとってそれこそがぎりぎりの真剣勝負だったのでは。ビートルズなんてクラスに一人聴いてりゃいい方だったと証言する著者世代と同じパーセンテージで本当にいいと思って金を払ってくれる聴衆と向き合いたいという願いである。第二章の「歌われていないことは山ほどある」の中で「だけど今、若者のファッションなんてさ、どこ行ったってみんな同じになっちまった」と語る著者はインタビュー当時のガングロ少女たちの投げやりな挑発ぶりに腐心しているのだが。それは現在のしまむらの部屋着に丸眼鏡と真っ赤な口紅で投げやりにきめる少女たちにも通じるよう。どうせ金もなければセンスもないけどあんたらあるわけというような。80年代初め、まだ自前のメイクで音楽シーンに再浮上した頃のRCサクセションを初めて見たとき、その異様な様相に恐怖したことを私は思い出す。あの頃の著者もまた同じようにわかってくれない世間を投げやりに挑発していたよう。それは偶然にも受け入れられたのかどうか。