神の視点とは云わず人としてどこまで

8月5日、高橋留美子 著『高橋留美子傑作集 魔女とディナー』(小学館)を読む。本作は著者が12年から17年まで『ビッグコミックオリジナル』誌上に発表した読切漫画6篇を収録したもの。表題作『魔女とディナー』はエステ企業の女社長の呪術に引っかかり食べた覚えのないカロリーが自身に押し寄せ肥満し続ける鰥夫のエレジーといった感の勿論傑作。近年の高橋留美子の作風は絵の上手さや当節の若者文化のコラージュは置いて何より構成のねばり腰と度胸で勝負しているよう。物語の展開を引っ張るにはこれ以上でも以下でも限界というポイントを待てるねばり腰と度胸というのか。続く『やましい出来事』も主人公は定年間近の中高年男。息子の婚約者として紹介された女性とは以前にキャバ嬢と客の関係で一線を越えかけた件を息子にはいつ知らせようか妻にはいつ知られるのかという葛藤。それらのタイミングを待つのは著者だがどこで展開するかでリアルさとわざとらしい結末のいずれがふさわしいか選択するのは云わば神の視点である。「私は長期の連載作品でバッドエンドを描くつもりはありません」と近年のインタビューで語る著者にとって気を持たせておいてやりきれない結末というのは何かに誠実さを欠くことなのだろう。が、誠実でなければ読者もついてこないという信念に消費期限はないのだろうか。『サザエさん』のように固定された時代の常識からはみ出さない作風は高橋留美子らしくないのだろうか。元キャバ嬢の婚約者を「おれは気にしてないんだ」と言いきる息子はフツウの会社員である。今の時代からスライドしない進行形の喜劇としてそれは成立している。今後のるーみっくわーるどに経済的理由のみから男女でルームシェアしたりパート感覚で風俗で働く主婦が登場してもオールドファンは歓迎できるかどうか。何となく志村けんの晩年のコントを観ているようで私は若干せつない。神の視点とは云わずとも人としてどこまで有りか無しかを選択するその人もまた時代の波の漂流物を食べて生きるバクテリアのようなものであり不変ではない。るーみっくわーるど選抜高校野球並みに今更なくすわけにもいかないメインカルチャーであるが。それでもデビュー当時は鳥人間コンテスト並みのポンコツ感であり門外漢扱いだったことを思えば今日の輝きも野党第一党のそれに近いような。ジャンクの国の女王という当初の立脚点をこれほどまでに輝かせたそのことは偉大でもまだあともう少し何やら結末を待たせるような。