11月18日、梅崎春生 著『怠惰の美徳』(中公文庫)を読む。本書は作家の梅崎春生が昭和17年から昭和41年までに新聞や文芸誌に発表した雑文と小説を再編したもの。その中の『聴診器』は昭和37年に『新潮』に書いた身辺記。小学生になる著者の息子が学級新聞の取材で近隣にある手塚治虫の家を訪問し広い庭や池や地下室に感激して帰ってくる。「うらやましかったよ。僕も早くあんな具合に…」成功したいのではなく成功した子供を持ち贅沢に暮らしたいと心底願っているわが息子に呆れる著者。昭和37年の小学生は現在70歳間近か。現役アーティストよりプロデューサーの方が収りはいい年齢ではある。自分は何も創らなくとも諸々の権利だけで暮らしを立てたいと小学生の頃から夢想していたこの世代はいわゆる万博世代。自分は手塚治虫や長嶋茂雄のようなビッグネームを今から目指す気持ちにとうていなれないのは承知のうえ、けれどこういうのもあっていいでしょうという果敢なパロディ精神を持って世に出た世代。少年期の彼らにはまだ落書きし甲斐のある立派なお手本がたくさんあったはず。現在の彼らが若い世代の手であまりイタズラされることもないのは幸いなのか不幸なのか(至極幸いなのではないか)。東大まで進んで貧乏話が売りの昭和のユーモア作家といえば田中小実昌も有名だが。現在その流れにあるのは誰だろう。東大生といっても雑誌モデル風の都会っ子もいれば郷里の神社の御守りをリュックに下げた期待の星もいる。クイズ番組の『東大王』に出演する東大生などは都会っ子が期待の星を演じているよう。メンバーの中にひとりだけタレント性のかけらもない期待の星がまざっていてはっきりパシリ扱いされていたらもう少し反響を呼ぶのでは。しかし今日『東大王』より梅崎春生や田中小実昌の貧乏話が面白いと感じるようでは私自身時代錯誤もはなはだしいのか。梅崎春生や田中小実昌の読者サービスはいつもどこか投げやりでまかない飯を見習いたちにぽんぽん放り投げるせっかちな大衆中華の主人のようでもある。『東大王』のメンバーたちは学園祭の屋台で異様な焼きそばを代わるがわる炒めるのが楽しくてしょうがない若者といった感が。演者は飽きても観客は飽きない時代と観客は飽きても演者は飽きない時代とではどちらが幸いなのだろうかと私は思う。だがいっそそのこと皆全員演者だアーティストだという青図もあまりに奇怪でグロテスクではないのかと江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』を思うのだ。