その配慮は「貧しさ」から生じていた

11月1日、『顔役』(71年 東宝)をDVDで観る。監督、勝新太郎。本作は勝新太郎

大映倒産直前に残されたスタッフごと他者と提携する形で縦横無尽に撮った意欲作。以前に劇場で観た時の印象は勝新作品の中でもとびきり面白いというものだったが。どこがどう面白いか説明しろと言われてもできない何やら白昼夢のような内容であった。今回繰り返し観直してもやはり夢は夢のままといった感。本作には脚本で言えば場面転換ごとのインデックスがない。そしてその夜とあれば月だとか所変わって何某邸とあれば屋敷の玄関といった目印になる映像がない。カメラは昼も夜も主観も客観もなく常に貪欲に観たいものだけを見続ける。村井邦彦の音楽は誰かが気分でプレーヤーの針を上げ下げしているようにブツ切れにされてまるで自分がミキシングルームで整音している感覚に。本作は音も映像もキットのまま投げ出して観客に自分で組み立てるよう仕向けてあるよう。時間軸も主人公の視点もバラバラにして観客の頭の中で組み立てる映画技法は今では珍しくない。故に本作は悪遊びとは決して呼べない正統な前衛である。信用金庫の不正融資をめぐる暴力団の抗争に潜入捜査するはみだし刑事の活躍というのが一応のストーリー。普通の監督ならそれをどう撮るかという着地点から異常な監督ならどう飛躍できるかに精力を注いだ勝新演出が冴える。オープニングの賭場のシーンに登場するのは本物の暴力団員というのは異常な映画の幕開けにふさわしい。が、後半の手打式のシーンに登場する要人の席に極端な阿呆面の若頭が口を半開きにして鎮座している演出はたけし映画のリアリズムにも似て逆にこの世界の闇の深さを感じさせる。新米刑事の前田吟暴力団幹部の山崎努を取り調べるシーン。前田吟は70年代の刑事ものに欠かせないゴムのように伸びきった出前のラーメンをすすっているのに対し山崎努は差し入れの幕の内弁当を優雅につつく。が、その幕の内弁当も今観るとあまり美味そうでもない。映画に登場する食べ物を本当に美味しそうと感じたのは伊丹十三監督の『お葬式』が初めてではないか。それまではライトの熱で干からびたステーキでも俳優が美味い、美味いとかぶりつけばそれは美味いものなのだと観客の方が配慮していたような。その配慮は「貧しさ」から生じていたと感ず。フードコーディネーターなる業種の発生を待たずにたしかに美味しそうなものだけをスクリーンに映した伊丹演出もまた正統な前衛だったのでは。普通の監督より一歩先の欲望に踏み出せる暴力的知性にはいずれも感服。