冗談の中に本気が含まれていいた?! 

1月9日、『ファイヤーマン 第12話 地球はロボットの墓場』(73年 円谷プロ)をDVDで観る。監督、大木淳。脚本、岸田森岸田森は本作でSAF隊員、水島役も演じている。ゴールデン枠のドラマを一人の俳優が自作自演する機会は当時も今も滅多になく、勝新太郎の『座頭市物語』同様に既存の作劇からどこまではみ出せるかが見どころだが。本作の岸田森は他の回での道化を返上して一切しゃべらない。大戦のどさくさに水爆を研究開発していた水島の父親が宇宙人に利用され人類をロボット化する計画に巻き込まれるも息子と孫娘を前に後悔する展開はいかにも強引。現在の2時間ドラマの結末で見晴らしのいい背景に主要人物が対角線上に並んで真相を一人一人順番に説明する場面のようだが。かくもわざとらしい展開の中で作者は台詞を発せず表情とややコミカルな動きを見せるにとどまっているのはなぜか。恐らく日本にも水爆を作った男がいた?!という当時としても大胆過ぎる着想のため自身の口から下手な理屈は言わずにおいたのでは。孫娘の美貌に怪獣がデレデレになったり秘密の研究所の中と外にはぐれた隊員がご都合主義的にベルトのバックルの発信機で連絡を取り合う場面もドリフのコントのようでもある。『ファイヤーマン』に登場する誠直也、睦五郎、平泉征はいずれも子供番組には似合わぬ極道顔で当時小学生の私も敬遠していた。岸田森という俳優の特異性に気付いてから観返した本作は傑作とまでは呼べないが意欲作には違いない。孫娘が湖のほとりで沐浴する場面や宇宙空間に現れたバラの形状をした光群の中にロケットが突入する場面はエロチックであるがどこか気品があり浪漫主義的である。エンディングに登場する病院のベッドに横たわる孫娘の胸部にむき出しになった機械を見ておののく水島が結局一言も発しないのもロボットの造形が見世物小屋じみてチープなのも屈折したリアリズムなのだろう。冗談の中に本気が含まれている現実を忘れてはいけないというのが本作に込められたメッセージだとすればそれは今でも鮮度も失ってはいない。円谷作品に度々登場する五分五分に闘った相手にはあえてとどめを刺さないという痛み分けのような結末は本作にもある。とどめを刺さないという戦術は恨みっこなしの共存協定のようにもとれる。が、それは社会学的というより生物学的な分野に根を張った定石なのではないか。緊急地震速報のキャッチ音をなぜ百遍聴かされても腰砕けになるのか理屈で説明されても安心できない私たちはまるでマウスのようでもあるが。