エレキギター1本で念仏を唱える様な

3月26日、宮沢正一『人中間』(いぬん堂)を聴く。82年にスマート・ルッキンなる自主レーベルより発表された宮沢正一のソロアルバム。プロデュースは遠藤ミチロウ宮沢正一は当初ミチロウと同じく生ギター1本で歌うソロ歌手だったが後にバンド志向になりラビッツを結成しスターリンの前座を務めるように。本作はその過程の一人パンク時代の記録。エレキギター1本で念仏を唱える様なボーカルを延々とうなるスタイルは一聴したところでは寺山修司の映画のサントラ風。本作は横浜教育会館でのライブのリハーサルをそのまま記録したもの。ライブ会場で直録りしたテープを乱雑に編集した音源を商品化するのは痛快なのだという価値観は当時は稀だったのではないか。なけなしの金で起ち上げた自主レーベルでダブルボーカルやフェイドアウトなどアイドル歌謡の真似事をするのは滑稽ではという疑問は当時少なかったはず。映画学校の生徒が卒業制作に挑むよう覚えた技術はすべて試したい欲求を抑えきれなかったのだろうし既成のレーベルから会社ごっこと揶揄されるのもまた愉快だったのかと。音質は劣悪なほど良しという主張が自主レーベルから既成レーベルに可決されたのは90年代後半にギターウルフが登場する辺りからか。「一人でしか出来ないこと(あたりまえすぎるほどあたりまえなのだが)を彼はやろうとしている。”宮沢正一”そのものなのだ」とミチロウは当時のエッセイに記している。その詩世界はミチロウよりも現代詩寄りというか。解説文に「必敗の美学と人類絶滅後にも歌われていた歌」と見出しが付けられている様に云わばディストピア賛歌でもある。「ケモノの匂い 今までここにいたなにかに気づいて 飛んでいったらしい ケモノの匂い 夢ではない もう時間なのだ 『ケモノ』といったアプローチは百年後の灰色の世界にあえて語りかけようとする現代詩人の「態度」と重なるものが。そこが嫌な感じに受け取れなくもない私は80年代にJ・Aシーザーや姫神せんせいしょんなどの舞台音楽のテープを秘蔵し愛聴している人間をどうかしていると思っていた。今改めて本作と向き合ってその隔たりは縮まったとは言いきれない。が、40年前にたった一人で「死と再生の歌の劇」を演じきっていた宮沢正一の足跡に今触れることは少なからず痛快である。大友克洋が『AKIRA』を連載し細川たかしが『北酒場』で返り咲いた同じ時間に本作の宮沢正一は深夜勤の道路工夫の様に自分だけの手作りディストピアを開園準備中であったかと。