あとは日常のたわいない戯事なのだ

4月3日、高橋ヨシキ 著『暗黒ディズニー入門』を読む。本書はアートディレクターの高橋ヨシキがディズニー作品の光と闇について自身は「悪魔主義者」に武装した上で臆することなく解説したもの。ディズニー作品を宗教や人種差別の面から裏読みした批判が集中することは近年珍しくない。著者はそれらを面白がるでもなく静観するでもなくウォルト・ディズニー自身の目線に合わせて解説する。アメリカ国内だけでも複雑な宗教事情の中で当人は「敬虔なクリスチャンである」とざっくり表明するだけで作品にも広報にも宗教観は極力排除するのはもちろん世界市場で成功するためだが。説教じみたものや不道徳なものを排除すればする程に御都合主義で本格的な作品に歪曲していくマイナスにも耐え抜くディズニーの魔術は現在まで健在である。『白雪姫』が1937年に誕生した際には1時間以上の長編アニメ映画を観る観客がいるのかと疑問が持たれたが予想に反して驚異的なヒットを達成した。作品の内容にドラマ展開と呼ぶ程の練られたものはない。劇中の大半は森の動物たちと七人のこびとのドタバタ劇の繰返しである。白雪姫と魔女の格闘や白雪姫と王子様の逢瀬に使われる尺は全体の二割にも届かない。人生において本当に劇的な事件や出逢いなど数分の間しか起こらない。あとは日常のたわいない戯事なのだからその時まで水たまりにはまったりケーキまみれになっていればいいじゃないかというのがディズニー自身の敬虔な人生観なのか。しかし楽になればいいとか自由でいればいいというメッセージは充分宗教的だと思うのだが。『白雪姫』をDVDで観直して私はふと沢口靖子を思い出す。『ウルトラセブン』のアンヌ隊員がある種の男性には永遠の女神であるのと同様に沢口靖子を息の長い女優にしている後見人の意識には白雪姫が棲んでいるものと思われてそのあたりもまた宗教的である。69年生まれの著者が映画館で初めて観た映画は『ダンボ』だとか。『ダンボ』の前半で同じサーカス団のおばさんゾウにダンボが意地悪される場面には今なお怒りがこみ上げるそう。「フリークで上等、奇形でいいじゃないか、という考えが『ダンボ』には背景としてあります」という著者はやはりダンボの様なたわわなボディラインの女性にも弱いのだろうか。そのようなある種の男性に宿るダンボ信仰は90年代のイエローキャブ人気と無縁ではないのでは。89年に幕を開けるディズニー再興の時代とグラビアアイドルの時代はぴったりとリンクしているのだ。