ならば建前なしに何が残るかという

6月19日、『毛の生えた拳銃』(68年 若松プロダクション)をDVDで観る。監督

大和屋竺。本作は『ルパン三世』の脚本家として知られる大和屋竺若松プロの三百万映画シリーズと呼ばれた低予算映画のメガホンを取った監督第三作。本作がきっかけで『ルパン三世』の企画が大和屋に持ち込まれたというから50年経過しても次作が待たれる看板番組の原石とも言える。主役の殺し屋コンビを演じるのは麿赤兒大久保鷹。組織に恋人を暴行された仕返しに組長を刺した若者を殺す仕事の報酬が割に合わないと30万で見逃してやろうかと若者に寝返るも逆に殺されかける。このシーンに登場するダイナマイトが花火の様で興覚めだがそれも狙いだろう。三百万映画には三百万映画のリアリズムがあってそこが魅力なのだ。組長の情婦が木製ハンガーで手首をねじあげられて拷問される姿もその組長が会話も手足も不自由な障碍者なのも三百万映画の中では奇妙に生々しく凄味があるのだ。現実の黒社会なぞ見たことがない観客にもそんな凄味を感じさせる大和屋竺のリアリズムは初期のたけし映画にも受け継がれている。胃痛に悩む大久保鷹がいっそ胃袋を踏んづけてやりたいと嘆く。相棒の麿赤兒は踏んづけてえなんで思ったらもう半分踏んづけちまったようなもんだろうと忠告する。殺し屋映画を観に来る観客は死体そのものを見に来るのではない。切った貼ったの彼岸にある何かモヤモヤしたものを一瞬でも目撃して「スカっとさわやか」になりたいのだ。路地裏で連れ込み宿の浴衣にサンダル履きで銃撃戦に挑むシーンは第四作『愛欲の罠』で割箸を発砲する改造銃で主人公が狙われるシーンを思い出す。職業に貴賤はないということが建前だとすれば命の取り合いに貴賤はないということも建前なのではないか。ならば建前なしに何が残るかという問いは戦争犯罪のジャッジ同様に正解がある方がおかしい。麿と大久保の殺し屋コンビが何も知らずにジャパニメーションの原石を演じている姿にこそ救いも希望もあるのだが。クライマックスの乱痴気パーティの中で「不思議と酔わねぇな」とポカンとする二人の横顔は文字通りスッキリさわやかである。本当に育ちがいいのはどんなに酔っても洗面台ではなく便器に突っ伏して吐くエチケットの残っている人物だと私は思う。そうしたエチケットを身に付けられる場は既存の映画学校ではなく60年代の若松プロのような梁山泊に限られると思うのだが。それが今の時代にどう成り立つものやら。