酒も煙草も知らない育ち盛りの味覚と

11月2日、西村賢太 著『瓦礫の死角』(講談社文庫)を読む。今年2月に急死した著者の追悼企画のひとつ。表題作の『瓦礫の死角』では中卒の身で一人暮らしを始めるもすぐに職も家も失い母親のアパートに転がり込む主人公、北町貫太のひきこもりの暴君振りが酷い。が、服役中の父親の出所が近いと知るや「自分が逃げるだけで精一杯である」貫太は面倒を避けて再び自活の道を選ぶ。続く『病院裏に埋める』はその後日談。飯田橋駅近くの一万五千円のアパートに紙袋二つの全財産を下げて入居した貫太はまず好物の三ツ矢サイダーを五口で飲み干す。近年復刻ブレンドが限定生産された三ツ矢サイダーを私も飲んでみたが正しくこの味という感動はなかった。酒も煙草も知らない育ち盛りの味覚と今ではブレて当たり前ではあるが。私が貫太ものに登場する80年代の原風景に惹かれるのはその育ち盛りの味覚のままのナマな描写ゆえか。四畳半トイレガス共用の貫太の新居と似た条件のアパートに私が結局25年以上も住んで東京を離れる際に公共料金の精算(ができないという相談)に役所を訪ね室料は現在二万と申告しても信用されなかった。最近地元に増え始めた物置小屋の様なミニホテルは親との同居に嫌気がさした私と同世代の中高年のプチ家出の需要に応えて好評らしい。こちらはなかなかオシャレに見える。十代半ばにして古書マニアの貫太が付近の古本屋で昭和二十年代の『探偵実話』なる小説雑誌を手に取るくだりから始まる潮寒二、森下雨村甲賀三郎大下宇陀児といった今では誰も知らない大正期の作家の講釈。西村文学には重要な登録商標トリビアルな古書知識である。が、90年代の音楽誌に紹介されていた都内でも入手困難な輸入盤やインディーズの解説文とこうした古書マニアのあてどもない講釈はどことなく似ている。これは知らねえだろ、ていうか買えねえだろという優越感をガソリンに若者文化の先端を疾走していたはずのあの時代の音楽ライターとこの時代の北町貫太はいい勝負である。何にのめり込もうとその者の勝手だが後にプレミアムが付くか付かないかによって浮浪児かカリスマ書評家かの落差も生じるコレクターの世界。私はこれから大正期の私小説を読んでみようと思う。が、読めば読む程に西村文学のしたたかな編集感覚に呆れ返ることも予想される。90年代、渋谷系のフィールドに棲息していれば筒美京平を神格化しない訳にもいかなかったのだが。私世代ならばその筒美京平の80年代の世間的な評価も忘れたふりはできない訳で。