どんな風来坊もやがて納まる所に

1月20日つげ義春 著『ねじ式/夜が掴む』(ちくま文庫)を読む。表題作『ねじ式』の何にたまげたかと云えば機関車が線路のない民家の路地を走る一場面だ。後の大野しげひさ主演のドラマ『走れ!ケー100』(73年TBS)の元ネタかも知れない。ゴダールの『気狂いピエロ』の様に通りすがりの奇人変人たち一人ひとりが名脇役というよりほぼ主役という描き方が秀逸。どんな風来坊もやがて納まる所に納まるというメルヘンが68年の若者の共感を得たのか。続く『ゲンセンカン主人』で米倉斉加年似の主人公に前世がなかったら「なぜ生きていけないのです」と問われた宿の女中が前世がなかったら私たちはまるで「幽玄ではありませんか」と応える一言には十代の頃ガツンときた記憶が。今はたわいない会話に思えるがあの一撃を受けてその後の生き方が変ってしまったと自覚するつげファンは多いはず。もう一篇の表題作『夜が掴む』は76年の作品。同居中の女性に暴力をふるう主人公。裸にした女性の全身には誰かがつけた「キッスマーク」が。以前に巣鴨の地蔵通りのスーパーのレジにて三十路のレジ係の首にバンドエイドがいくつも貼ってありそこからキッスマークがはみ出していた様子を思い出す。半分は隠したいが半分は見せつけたいような。やはり本作に登場する美しからぬ女性に似ていた。そんな女性が自暴自棄に生きる姿がドラマチックだった76年という時代の気分。ロマンポルノの気分か。令和のロマンポルノに登場する自暴自棄な男女の姿はどこかわざとらしくこんなスノッブなアパートメントに住めるのはむしろ富裕層じゃないかと私は思う。近年の荒井晴彦の作品に登場するやさぐれた男たちは画面にはあえて描かれないが実は闇バイトの指示役で荒稼ぎする高等遊民なのだと思って観れば納得できる。『懐かしいひと』は73年作品。旅館の大浴場で「なんとなく」ボッキした姿を周囲に見られる主人公の不甲斐なさ。山田太一が少年時代に同級生の女子と混浴でバッタリ出会い湯から上がるに上がれずそのままのぼせたというエピソードを思い出す。西村賢太の小説には銭湯の男湯にもう胸のふくらみかけている娘を連れてくる父親にうっかりボッキしたこちらの身にもなれと苦悶する場面が。あるあると思った私もかつて北区滝野川近くの銭湯を利用しており全く同じ父娘に会っていたのかも。つげ作品に登場するひなびた温泉町を舞台に令和のロマンポルノが制作されることを私は望むものだが。既に何本も撮られながら余り話題にはならなかっただけかも知れず。

右も左もわからない新参者の視点は

1月15日、今村夏子 著『とんこつQ&A』(講談社)を読む。今村夏子は2010年に太宰治賞受賞作でデビュー。後に三島賞河合隼雄物語賞、芥川賞も受賞と今や誠に充実している筈の大家だ。エンタメではなく純文学の世界で頂点に立つ作家の筆致が分かるほど小説好きではない私に本作のレベルの高さは読み取れないが。うんとアットホームでたどたどしい日常を描きながらもっと広い世界と向き合っている様な。主人公の今川さんはこれといった職歴もなく「いらっしゃいませ」も満足に言えないまま近所の大衆中華『とんこつ』でアルバイトを始める。大将と小学生の息子にはかわいがられ母親のいない家庭の後妻にもなってしまいそうな所で更に不器用な女性が入店する。その不器用な丘崎さんを大将と息子は今川さん以上にかわいがり始めたので後妻はゆずるもバイトは継続中という内容。「とんこつQ&A」とはとんこつ店内で働くために主人公が作成した虎の巻のこと。給料をもらって働くことを始めた頃に記していたその類のメモを保存してあれば私もそれを今こそ読み返してみたい。今思えばとんでもない人物を信頼していたりしそうだ。詳しいことは知らされなくてもよくない噂と共に退職した仕事仲間は何人もいた。右も左もわからない新参者の視点はそのままで充分にスペクタクルなのだ。今川さんは営業トークを身に付けようとボイスレコーダーを常備して何度も聴き直して改善していく。ボイスレコーダーは昨今パワハラやカスハラの有無を決定づける道具でもある。実際に接客業は怖い。普通のお客さんと思っていたらある時火が付いた様に暴言を吐くことも。友人になりかけた相手と即座にケンカ別れを繰り返す学生時代を思い出す。「自分で言うのも何だけど、わたしの丁寧な接客はお客さんからとても評判が良かったのだ」と言い切れるほどに自信をつけた今川さん。店の売り上げも最高額に達した。不器用な新人を「長い目で」見守り続けた大将の勝利だ。私が以前に百貨店のレストラン街で働いていた頃に「あの店は女店員を顔で選んでいる」と批判する学生がいた。顔で選んで当たり前じゃないかと思ったが。顔で選んでその分いたらないところは周囲がフォローするという本作と同様の仕来たりが面白くない学生も就職氷河期の当時はいたのかと。この世界にはこの世界の仕来たりがなどと言えば格闘界やAV界のことかと思いがちだが。どんな世界にも仕来たりはあるのだろう。それが滅多なことではむきだしにはならないこの日常が私にとってはありがたい。

同時代では沢田聖子とか

1月12日、谷山浩子『静かでいいな~谷山浩子15の世界へ』(キングレコード)を聴く。谷山浩子の音楽をじっくり聴くのは初めて。半分寝ながら聴いたのは数知れず。それは谷山浩子の音楽が退屈だからではない。80年代初めに谷山浩子オールナイトニッポンの二部を担当していて一部を目当てに聴いても当時中学生のスタミナでは二部前後で寝落ちして谷山浩子のエンディングで目覚めるのがパターンだったのだ。今改めて向き合う谷山浩子の世界は思ったより暗くない。オープニングの『銀河系はやっぱりまわってる』の中の「疲れた人がうっかりボタンを押してしまったら 地球ひとつが消えてなくなっても」というくだりは終末論めいているがこの時代にはありがちなイメージか。今でいうディストピア幻想みたいなものだが寺山修司の「核戦争はフィクションだ」という提言はそこに執着することは馬鹿げているという意味だろう。ダイインなんぞは流行らなくなったように脅威は変わらずとも怯えかたは変わる。続く『天使のつぶやき』では「どんなに強く 愛していても いつかはきっと さめてしまうわ むなしいものなの」とわりとウェットな面も。体躯が貧弱でぎらぎらした性的魅力とは真逆の女子ならではのセックスアピールだ。谷山浩子はその先駆けだったのでは。同時代では沢田聖子とか。後のZARD裕木奈江にも通じるような。只、ぎらぎらと活性化した女子にはアレルギーだという男子もいる。貧弱な腐女子好きにはたまらない新鮮なディーバがそろそろ現れるかも知れない。表題作の『静かでいいな』では「静かでいいな だれもいなくていいな 世界に僕ひとり」と孤独の創造性を讃える。受験生のアイドルと呼ばれた谷山浩子らしいメッセージだ。こうした谷山浩子の専売特許を今現在もかろうじて延命させているのは阿佐ヶ谷姉妹か。古物屋で見つけた自分以外の誰も買わないアンティーク家具のような引力があると思う。最終曲の『今、どうしたら』では「ガラスケースの中から 世界をのぞいても いくら可愛そうと思っても それで何ができるの」と再びディストピア幻想に引き戻される。個人の感想だがイースタンユースの音楽にふれる度に深夜の空気というのか世間が眠る時間に働く人間が発信した言葉だと感じてしまう。谷山浩子の音楽性もそれと同列のものかと。午前三時からが本番ならば前日は午後七時には就寝しなければ体調は整わないだろう。もう子供じゃないのにそんな早寝をして放送に全力を注いだ谷山浩子を今更ながらねぎらいたい。

大人同士の恋は小鳥のようにいつでも

12月3日、日比谷TOHOにて『平場の月』を観る。監督、土井裕泰。「妻と別れ、地元に戻って印刷会社に再就職し、慎ましく、平穏に日々を生活する、主人公、青砥健将。その青砥が中学時代に思いを寄せていた須藤葉子は、夫と死別し今はパートで生計を立てている。お互いに独り身となり、様々な人生経験を積んだ二人は意気投合し、中学生以来、離れていた時を埋めていく」と以上パンフの序文より。久しくなかった大人の恋愛劇という前評判。同級生の互助会のつもりで時々飲もうという約束をするも実は居酒屋すらきびしい内情なのだと打ち明けて家呑みを提案する須藤(井川遥)にとまどう青砥(堺雅人)。大人の恋愛劇というのは今さら格好つけても始まらないいい大人という意味であり本作の強み。その後男女の関係にもなり大腸がんが見つかった須藤を支える青砥の気持ちは固まりつつあったが。ある夜、須藤のアパートにて手術を終えた経過はどうと青砥に問われ後ろ向きに頼りないVサインを返す須藤を見て私はすぐに良くないのかと思った。が、青砥はㇹッとして次は温泉に行こうかとか快気祝いにまたプレゼントさせてとか高揚する中で須藤から別れを告げられる。私はすぐにもう長くないんだと思った。青砥はちょっと待ってくれとおもむろにトイレに立って排便する。パートナーの心変りには犬や猫でもストレス性の下痢になる。トイレから戻る青砥は須藤に今のお前はニュートラルじゃないからあの時は先走ったことをと後悔するかも知れない。だから一年待て。一年後に再開しようと強引に約束する。一年後の再会は叶わず須藤は亡くなるのだが最期に立ち会った身内が青砥に見せるスマホには手術後のお守りに青砥からプレゼントされた月をモチーフにしたペンダントを身に付けた須藤の姿が。お前がどんな体になろうと死ぬまで離さない覚悟だと主張する青砥と愛情の有無とは関係なくそれは拒否すると決めている須藤とのすれ違い。自死尊厳死にもつながる問題だが。俺一人の体じゃないからと自分をいさめるのは自由でもお前一人の体じゃないんだぞと他者に言いきかせるのは不自由を強いることになるのではないか。大人同士の恋は小鳥のようにいつでも自由でいたいものなのではないか。もう若くない世代が地元に戻って同級生と家族ぐるみ付き合う生活様式はひと頃いわれたマイルドヤンキーに通じる。なりゆきで自然に選んだ生き方でも外部からカテゴライズされると面白くない。本作に登場するヤンクスは皆一人残らず友達思いの好青年なのだが。

傍から見れば百鬼夜行なのだ

9月22日、呉勝浩 著『素敵な圧迫』(角川書店)を読む。本書はミステリー作家、呉勝浩が18年から21年までに文芸誌に発表した短編集。表題作の主人公、蝶野広美はコンビニチェーン本社の販売戦略部に所属するOLで「飲料品を評価し、仕入れ量の検討資料をつくる」のが日課。ペットボトルに田舎の高校生がよろこぶお茶目な惹句をデザインしたりする高め安定のOLを著者はうらやましがっているのかいい気な者と見下しているのか微妙。西村賢太の様にエリート育ちながら自分ごときの三流文士に憧れているという図式が理想なのでは。その広美は自称「抱かれフェチ」であり数限りない男性から強く抱かれた際の圧迫感を品定めしているが。「どうせ世の中に、完璧な圧迫なんてないのだから」と醒めた一面も。何かのフェチに走れば結局同じ穴のムジナにぶつかるもの。古いゴシップだが沢たまき議員に誘われた熟練ホストがその方のキャリアはさすがだと暴露記事のインタビューなのに変な持ち上げ方をしていたことを思い出す。傍から見れば百鬼夜行なのだ。広美がたどり着いたほぼ理想の圧迫感の相方は風間遼という「若いがデキる男」だったがフィアンセがいた。そのフィアンセが手下を連れて脅しに来たりもするが広美の情欲は余計に燃えあがる。地位も名誉もある人物がなぜバレたら身の破滅になる不倫が止められないのか。青年実業家が挑む悪運試しのアドベンチャーと同様の「圧迫感」がたまらないのか。ここを通り抜ければもっとタフになれるという鍛錬なのかも知れない。「週に一度、会社のメールを使い約束を交わす。待ち合わせは人ごみで、時間は三十分以内」という描写は何となくゼロ年代中原昌也の小説を読んでいるようだが。81年生まれの著者が本気でハードボイルドを気取っているのかふざけているだけかもは微妙。見え透いた結末になだれ込む韓流ドラマを観る様に楽しむべき今日的な作風なのかも。森村誠一の小説に登場するSMカップルの痴態をまだ精通もないのに面白がって読んでいた小学生の頃を思い出す。が、五十代になっても私にはこんな高め安定カップルの情事は未来永劫のサイエンスフィクションだ。寺沢武一の世界だ。広美は遼に殺されかけるほどの修羅場を体験したあげくフィアンセとの結婚を祝福しにタクシーで向かうラストは80年代の中流層の不倫劇を思わせる。作家が生まれ年の文化に無意識に誘導された仕事をする例は珍しくない。著者にとって80年代のサブカルは自由な大人の遊園地かも知れず気持ちばかりうらやましい。

もうそろそろそうした波はやってくる

9月12日、ジョニー大倉の『I・ME・目眩』(87年テイチク)を聴く。オープニングの『今宵はパラダイス』は何かのCMソングだった気がする。深夜番組の合間に流れた消費者ローンのCMだったかも知れない。夜の男のイメージが強いジョニーらしいシンプルなロックンロールは安岡力也が歌っても似合いそう。6曲目の『GOLD MINE』の中の「その遠い昔 通り過ぎていた 夜のあやしい天使よ」というくだり。かつて坂本龍一のFM番組にて『戦場のメリークリスマス』のロケ先より俳優仲間との実況録音を届ける回があった。ジョニーさんも何か一言といわれ何人もの女性の名前をあげてもうすぐ帰るぞとラブコールをおくったジョニー。共演者との噂はあまり聞かないジョニーは所謂玄人好みだったと思われる。やはり夜の男か。8曲目の『愛スミマセン』の中の「あの時はSeventeen 無くす物もない 自由の無駄使い Highwayをとばす闇に向かって」では自身の青春期をストレートに描いている。キャロルのイメージから離れたり近づいたりを繰り返していたソロ歌手、ジョニー大倉の魅力はそのグリップの甘さというのか弱さだったと思う。反社会側からの圧力で盆踊り大会のステージに無償で出演する姿が『宝島』に投稿された頃と本作のリリース時はそう離れていない。役者で成功した一方では引き続き踏んだり蹴ったりだったよう。キャロルの全盛期にもモチベーションを失って永ちゃんにぶん殴られてステージに立っていたエピソードも有名。そうした嫌なことばかり思い出させるオールドファンの要求もつらいものがあったのでは。格闘家の顔も持っていたジョニーの人生は実にプロレス的だ。10曲目の『君にLOVE TOUCH』では「いくつ恋を重ねたとしても 涙だけは苦手なMy Love Away」というジョニーらしいスタイルの詞が印象的。日本語詞と英語詞のチャンポンという作詞術はジョニーが始めたとは言いきれないかも知れないがほぼそうだ。その辺りの自負は本作にも感じられる。只、アピールするタイミングが悪かっただけで。ゼロ年代はじめに新生ゴールデン・カップスが川口のキャバレーに出演しているのを知った私はそんなものだろうと思った。が、数年後にカップスのドキュメント映画が公開されるタイミングでその功績は俄然輝き出した。その流れで次はキャロルも『ロック画報』に特集されるかと思ったがそうはならなかった。もうそろそろそうした波はやってくる気もするが。

だから子供目線で描かれたこの時代は

9月9日、いがらしみきお著『ふつうのきもち』(双葉社)を読む。本作は漫画家のいがらしみきおが18年から20年までWEBアクションにて配信した漫画を単行本化したもの。主人公は小学三年生の男子、和田広彦。コロナ騒動に揺れる地方都市の情景を子供目線で描く。第一話『スズメと死のこと』でいきなり生命というテーマが。道で拾ったスズメの死骸を家に持ち帰る広彦に母親が埋葬を指導する。目印に石を置くことで「ず~~~っとそこにいたんだね」と思えるようになるわけだと広彦は納得する。かつてジョージ秋山の『花のよたろう』では作者自身の語りとして少年時代に飼い犬の交通事故死に遭遇したエピソードが。父親が背広を脱いで路面に飛び散った臓物を手づかみで集めて持ち帰る姿に心を打たれたという内容だった。広義には命を粗末にするなかれということを伝えたいのだろう。が、近年ニュースになった小学校の教員が命をテーマにした課外授業でISによる「公開処刑」の動画を生徒に見せて父兄の抗議を受けた様に異議申し立てのベクトルが余りに千差万別な状況に著者もとまどっているよう。「なんだか世の中のやり口が私に似てきたので、その浅はかさに腹が立ちました」とあとがきには。ギャグ漫画のオチみたいなことが堂々正論化される現実への回答が本作だとしたらそれを引き継ぐのは著者の孫世代だろう。だから子供目線で描かれたこの時代は孫世代の記憶の出発点としてここに残され何かを気付づかせる。『ぼのぼの』のキャラクターの造形のみに惹かれていた世代も今は成人して作品の哲学性にも感心したりうざったく思ったりしているはず。第9話『けむりとニオイと味のこと』では広彦の意中の女子ヤイナちゃんの目線の発信力の脅威が分析される。少年期に好きな女の子が自分を見てる目線はなぜ自信たっぷりだったのか。勝ったとかもらったとかその様なサインだったのか。自身は好きでもない男子にも一応好かれていたいという女子の気持ちは未だにわからないが。簡単な手作りチョコを人数分配る心遣いが許されるのはアイドル並みの美少女のみ。それをされると却って誰も不粋なことはできない効果はある。空気を読まない田舎者パワーを『なんとなく、クリスタル』な時代に叩き売った著者の変化を保守的になったと私は思わない。土着性を売り物にする表現者は只そこにある物に思いつきのプレミアを付けた時から充分に鉄面皮で油断ならない。それは逆に言えばいがらしみきおの関心のベクトルにはこれからも目が離せないということだ。