本作のタイトルは撮影時は『ひよこ』

5月15日、『あ、春』(98年松竹)をDVDで観る。監督、相米慎二。神保町シアターで去年開催された藤村志保の追悼上映のチラシの中で本作は「名優たちの競演も贅沢なベルリン映画祭批評家連盟賞の大傑作」と評価されているが。『映画芸術』(02年)の相米慎二追悼特集での荒井晴彦と長谷川和彦の対談では「山田洋次みたいなシャシン撮らせるためにディレカン潰したんじゃねえぞ」と酷評されている。山田洋次みたいな作風への評価が20年前と今とでは変化しているよう。公開時はスルーされても後に再評価される映画は勿論「大傑作」なのだが。相米慎二が何やらほっこりしてきた90年代終りの邦画界といえばCGを多用した一見豪華そうで実は予算をしぼったデフレ映画の乱造期。今あれらの作品をしみじみ振り返る者はいない。90年代終りといえば寺山修司の再評価が盛り上がっていたような。何か権利上の問題で強引にリバイバルを仕掛けたのかも知れないが乗れないものでもなかった。「突然現れた死んだはずの父に翻弄される家族の物語」である本作に寺山の影は濃厚。父親役の山崎努は『さらば箱船』(84年)の主演であり相米は『草迷宮』(79年)の助監督も務めている。大友良英の音楽は救世軍バンドのような頼りないラッパ管が印象的だが『ボクサー』(77年)でJAシーザーが担当した音楽とかぶっている感も。本作のタイトル撮影時は『ひよこ』だったが『あ、春』の方が現代詩的だ。山崎努演じる父親が競馬新聞に赤ペンを入れる姿やのぞきがばれて家を追い出されるくだりと何より肝硬変で急死する結末が寺山カラーを拭いきれない。『映画芸術』での丸山敏治の批評に「人物を横顔で撮っている」とあり初めて気づかされた。人物を正面からカメラ目線で撮るとかつては巨匠のアングルをなぞる学生気分の監督と笑われたが今はそれがさほど恥ずかしいことでもなくなってしまったよう。教わったことは全部やってもかまわないと思っている新人監督も多いのでは。観客よりも映画学校の講師にサービスしている様でまるで面白くないがこの傾向は続くのだろう。最期に病院のベッドで亡くなる父親の腹巻の中で卵からひよこが生れる場面。実は生れないバージョンもあるとか。一時間四十分付き合ってくれた観客をしょんぼり帰したくない相米のやさしさは時代遅れと私には思えない。医師役で登場する当時はカルト映画作家の頂点にあった塚本晋也はシリアスな戦記物路線から離れて「また健全な変態に戻りたい」そうだがそれはこれから先も困難だろうと思う。

オープニングは『雨が空から降れば』

5月6日、小室等『ここから風が DISC HISTORY “71-92”』を聴く。本作はフォーク歌手、小室等が71年から92年までに発表した楽曲のベスト盤。オープニングは『雨が空から降れば』。『出発の歌』やドラマ『木枯し紋次郎』のテーマ曲など有名なヒット曲は他にあるのに『雨が…』を自身の代表曲据え続けるポリシーは都会派の感が。看板らしい看板もなく一見して普通の民家なのに実は知る人ぞ知る絶品グルメの飯処のような。別役実の詩「オモイデは地面にしみこむ」「電信柱もポストもフルサトも雨の中」といった思い入れ付きのカタカナ表記は80年代のセゾン文化圏の匂いが。『雨が…』は71年作品だがそのルーツかも。カタカナ表記のルーツが寺山修司でも糸井重里でもなく別役実とは意外。「オヤジギャグ」のルーツが大槻ケンヂの『オールナイトニッポン』である史実と重なるよう。『お早うの朝』は76年作品だが作詞は谷川俊太郎、編曲はムーンライダーズとこちらは正しくセゾン寄り。「ゆうべ見た夢の中で ぼくは石になっていた 見知らぬ町で人に踏まれ 声を限りに叫んでた」のくだりはパニック映画ブームの背景が見える詩世界。「夢には明日がかくれている だからお早うの朝はくる」と続く展開。近年、宮沢章夫のラジオ番組が大友良英、中原昌也などをゲストに招いて「月曜の朝からノイズミュージックが聴ける番組」などと盛り上がっていたが。今の時代に月曜の朝をセゾンの後夜祭が独走することなど私たちは許すべきではなかったのでは。終ったものは終ったままでいいと思いつつ私も80年代インディーズ周辺の回顧作品を求めのこのこと出かけているが。「夢には明日がかくれている」とは藤子不二雄の描いた未来社会が部分的には現実化しているようなことを指すのだろう。それが誇らしいのか痛ましいのかは現役世代のみがジャッジできるわけでもない。タケコプターの誕生はプライバシーの消滅を伴うわけで若者だけに決定権があるのはおかしい。『ここから風が』は91年作品。「偉い人は日本を金持ちにした そのぶんだけ 生きてるものたちは 悲しい目にあったから ぼくらも心がなさけない」。阿久悠が自身のアーカイブ企画の特別番組に呼ばれて嫌々過去作を解説していた時代。小室等にしてみればもう70年代の追い風は感じられないが語り継ぐほどの大きな物語は自分には似合わないという宣言か。代表作は今では誰も知らない小ヒット曲で充分というポリシーも気持ちがいいが。それとは別に教科書には採用されてしまうこともありそうな。

著者は70歳を過ぎてもそんな感傷を

4月25日、ねじめ正一 著『泣き虫先生』(新日本出版社)を読む。巻頭に「本書は『しんぶん赤旗』日曜版19年6月~20年6月連載を単行本化にあたり加筆・修正したものです」とある。私なぞは久しく見なかった著名人が『聖教新聞』に登場するとこの人は今そちら側のバックアップを受けているのかと想像するが本書のねじめ正一にも同じようなことを想像してもいいのだろうか。泣き虫先生は本書の主人公ではない。本書は商店街の名門野球チームでバッテリーを組む中学男子、卓也と清田の成長を描いた青春群像の中に脇役としていつも感激して泣いている泣き虫先生と野球チームの監督を勤める不良中年チビカンなどが登場する下町人情ドラマである。卓也が幼なじみの英次から「英ちゃんはやめろ!」と怒られる場面。中学に上がるとあの子はもう大人だから愛称で呼ぶなと向うの親から要求されたりする何となくシビアーな一幕を思い出す。著者は70歳を過ぎてもそんな感傷をファイルしてある点がすごい。「この帽子、どっか変だと思わないか」と清田が卓也に巨人の野球帽を見せる。巨人軍のマークがオレンジ色で帽子全体は黄色のものを変だと思わず中学に上がるまで使用していた。本物とは巨人の選手が球団から支給される帽子のことだろうと気にしなかった。他のチームでは完全なヒールだったのに巨人に移るとベビーフェイス化する外人選手というのも信用できなかった。卓也のクラスのホームルームの場面で発言する生徒は三名ほど。ホームルームだけでなく授業中も先生と親しげに世間話を始める生徒は特定されていた。クラスの大半は観客だったわけだが自分は演者だと思っているその生徒は学業もスポーツも平均以下だったような。何にでもすぐ首を突っ込みたがる田舎のオヤジの少年期といった感の。幼なじみの英次が銭湯の煙突にのぼって自殺をほのめかすとパニックになる町の人々の中から飛び出して煙突を駆けのぼるチビカン。「あの人は誰なんだ」「ぼくたちの少年野球チームの監督です」「ひょっとしてチビカンか?」「チビカンを知っているんですか」「知ってるよ、有名だよ」などと『男はつらいよ』並みのわざとらしい展開だが新聞小説はこれでいいんだという人もまだ多いだろう。今も昔もそんな人たちは『赤旗』を読んでいるのかも。そして次世代の下町人情劇は朝倉かすみや今村夏子のような才能が技術的にはたゆまず進化させていくのだろう。それでいいじゃないかと私なぞは思う。

鼻血といえば白血病という連想は

4月5日、勝又進 著『深海魚』(青林工藝舎)を読む。本作は漫画家、勝又進が84年に『COMICばく』に発表した表題作を中心に編んだ作品集で発行は2011年10月。原発事故を受けて被曝労働者の現実を描いた『深海魚』や『デビルフィッシュ(蛸)』を再び世に送り出すという試みはタイムリー過ぎて世間向きには1984年と同様に反響は小さかった。私も前々から気になっていた本作を初めて読むのは覚悟が必要だった。解説にある通り「我々は被曝労働者の命を燃やして灯りや暖を取っていることになる」という主張の本作をななめ読みして今まで通りの日常を過ごすのは至難だからだ。登場する原発の作業場が意外とゴミゴミして汚いし暗い様子は2011年の事故報道で初めて知った。そこで作業員が何をするかといえば雑巾がけにモップがけなど地味な手作業が除染の主なところというのも意外。作業中に事故死した者は「ドラム缶にコンクリート詰めして外には出さん」というのはギャグなのか現実なのか。作業員が休憩中に「鼻血とまりました?」、「うん、コロッと死ぬ奴いるんだよな」と会話する場面。鼻血といえば白血病という連想は後藤久美子主演の映画『ラブ・ストーリーを君に』(88年)からか。連れ込みホテルを常宿にしている作業員が「街に出て女をひっかけて」楽しむようなことを言っておきながらホテルでひとりAVを観ながら眠りこけるラストは80年代的。ビデオの普及をAVがどれほど後押ししたかも世間向きにはスルーされている。何かグロテスクでえげつないエネルギーだけが世の中を活性化させている事実を認めよという主張が原発の放水口に迷い込んだ巨大蛸に象徴されている『デビルフィッシュ(蛸)』管理区域内で肌着から何重にも着替えて完成すると宇宙飛行士並みの重装備になる作業員が「ここは竜宮城の玉手箱ってわけよ」とうそぶく。そこまでしても作業員は短期間に10年分は老け込むというのが定説だからだ。が、被曝者はわずかでもガンになる者もいて「どうなってんのかね」とも。『太陽を盗んだ男』の映画監督、長谷川和彦は胎内被曝のため成人するまで生きられないと知らされていたそうだが80歳まで生き延びた。「タコは自分のからだを食うっていうけどこちとらも似たようなもんさね」とぼやく作業員と私たちの日常は天国と地獄ほども離れてはいないのでは?知りたくもないことも知らされてしまう情報の洪水の中を泳ぎきる自信は私にはあまりないのでスマホの電源もニュートラルな気分のときしかオンできない。それも充分愚かなんだ。

どんな風来坊もやがて納まる所に

1月20日つげ義春 著『ねじ式/夜が掴む』(ちくま文庫)を読む。表題作『ねじ式』の何にたまげたかと云えば機関車が線路のない民家の路地を走る一場面だ。後の大野しげひさ主演のドラマ『走れ!ケー100』(73年TBS)の元ネタかも知れない。ゴダールの『気狂いピエロ』の様に通りすがりの奇人変人たち一人ひとりが名脇役というよりほぼ主役という描き方が秀逸。どんな風来坊もやがて納まる所に納まるというメルヘンが68年の若者の共感を得たのか。続く『ゲンセンカン主人』で米倉斉加年似の主人公に前世がなかったら「なぜ生きていけないのです」と問われた宿の女中が前世がなかったら私たちはまるで「幽玄ではありませんか」と応える一言には十代の頃ガツンときた記憶が。今はたわいない会話に思えるがあの一撃を受けてその後の生き方が変ってしまったと自覚するつげファンは多いはず。もう一篇の表題作『夜が掴む』は76年の作品。同居中の女性に暴力をふるう主人公。裸にした女性の全身には誰かがつけた「キッスマーク」が。以前に巣鴨の地蔵通りのスーパーのレジにて三十路のレジ係の首にバンドエイドがいくつも貼ってありそこからキッスマークがはみ出していた様子を思い出す。半分は隠したいが半分は見せつけたいような。やはり本作に登場する美しからぬ女性に似ていた。そんな女性が自暴自棄に生きる姿がドラマチックだった76年という時代の気分。ロマンポルノの気分か。令和のロマンポルノに登場する自暴自棄な男女の姿はどこかわざとらしくこんなスノッブなアパートメントに住めるのはむしろ富裕層じゃないかと私は思う。近年の荒井晴彦の作品に登場するやさぐれた男たちは画面にはあえて描かれないが実は闇バイトの指示役で荒稼ぎする高等遊民なのだと思って観れば納得できる。『懐かしいひと』は73年作品。旅館の大浴場で「なんとなく」ボッキした姿を周囲に見られる主人公の不甲斐なさ。山田太一が少年時代に同級生の女子と混浴でバッタリ出会い湯から上がるに上がれずそのままのぼせたというエピソードを思い出す。西村賢太の小説には銭湯の男湯にもう胸のふくらみかけている娘を連れてくる父親にうっかりボッキしたこちらの身にもなれと苦悶する場面が。あるあると思った私もかつて北区滝野川近くの銭湯を利用しており全く同じ父娘に会っていたのかも。つげ作品に登場するひなびた温泉町を舞台に令和のロマンポルノが制作されることを私は望むものだが。既に何本も撮られながら余り話題にはならなかっただけかも知れず。

右も左もわからない新参者の視点は

1月15日、今村夏子 著『とんこつQ&A』(講談社)を読む。今村夏子は2010年に太宰治賞受賞作でデビュー。後に三島賞河合隼雄物語賞、芥川賞も受賞と今や誠に充実している筈の大家だ。エンタメではなく純文学の世界で頂点に立つ作家の筆致が分かるほど小説好きではない私に本作のレベルの高さは読み取れないが。うんとアットホームでたどたどしい日常を描きながらもっと広い世界と向き合っている様な。主人公の今川さんはこれといった職歴もなく「いらっしゃいませ」も満足に言えないまま近所の大衆中華『とんこつ』でアルバイトを始める。大将と小学生の息子にはかわいがられ母親のいない家庭の後妻にもなってしまいそうな所で更に不器用な女性が入店する。その不器用な丘崎さんを大将と息子は今川さん以上にかわいがり始めたので後妻はゆずるもバイトは継続中という内容。「とんこつQ&A」とはとんこつ店内で働くために主人公が作成した虎の巻のこと。給料をもらって働くことを始めた頃に記していたその類のメモを保存してあれば私もそれを今こそ読み返してみたい。今思えばとんでもない人物を信頼していたりしそうだ。詳しいことは知らされなくてもよくない噂と共に退職した仕事仲間は何人もいた。右も左もわからない新参者の視点はそのままで充分にスペクタクルなのだ。今川さんは営業トークを身に付けようとボイスレコーダーを常備して何度も聴き直して改善していく。ボイスレコーダーは昨今パワハラやカスハラの有無を決定づける道具でもある。実際に接客業は怖い。普通のお客さんと思っていたらある時火が付いた様に暴言を吐くことも。友人になりかけた相手と即座にケンカ別れを繰り返す学生時代を思い出す。「自分で言うのも何だけど、わたしの丁寧な接客はお客さんからとても評判が良かったのだ」と言い切れるほどに自信をつけた今川さん。店の売り上げも最高額に達した。不器用な新人を「長い目で」見守り続けた大将の勝利だ。私が以前に百貨店のレストラン街で働いていた頃に「あの店は女店員を顔で選んでいる」と批判する学生がいた。顔で選んで当たり前じゃないかと思ったが。顔で選んでその分いたらないところは周囲がフォローするという本作と同様の仕来たりが面白くない学生も就職氷河期の当時はいたのかと。この世界にはこの世界の仕来たりがなどと言えば格闘界やAV界のことかと思いがちだが。どんな世界にも仕来たりはあるのだろう。それが滅多なことではむきだしにはならないこの日常が私にとってはありがたい。

同時代では沢田聖子とか

1月12日、谷山浩子『静かでいいな~谷山浩子15の世界へ』(キングレコード)を聴く。谷山浩子の音楽をじっくり聴くのは初めて。半分寝ながら聴いたのは数知れず。それは谷山浩子の音楽が退屈だからではない。80年代初めに谷山浩子オールナイトニッポンの二部を担当していて一部を目当てに聴いても当時中学生のスタミナでは二部前後で寝落ちして谷山浩子のエンディングで目覚めるのがパターンだったのだ。今改めて向き合う谷山浩子の世界は思ったより暗くない。オープニングの『銀河系はやっぱりまわってる』の中の「疲れた人がうっかりボタンを押してしまったら 地球ひとつが消えてなくなっても」というくだりは終末論めいているがこの時代にはありがちなイメージか。今でいうディストピア幻想みたいなものだが寺山修司の「核戦争はフィクションだ」という提言はそこに執着することは馬鹿げているという意味だろう。ダイインなんぞは流行らなくなったように脅威は変わらずとも怯えかたは変わる。続く『天使のつぶやき』では「どんなに強く 愛していても いつかはきっと さめてしまうわ むなしいものなの」とわりとウェットな面も。体躯が貧弱でぎらぎらした性的魅力とは真逆の女子ならではのセックスアピールだ。谷山浩子はその先駆けだったのでは。同時代では沢田聖子とか。後のZARD裕木奈江にも通じるような。只、ぎらぎらと活性化した女子にはアレルギーだという男子もいる。貧弱な腐女子好きにはたまらない新鮮なディーバがそろそろ現れるかも知れない。表題作の『静かでいいな』では「静かでいいな だれもいなくていいな 世界に僕ひとり」と孤独の創造性を讃える。受験生のアイドルと呼ばれた谷山浩子らしいメッセージだ。こうした谷山浩子の専売特許を今現在もかろうじて延命させているのは阿佐ヶ谷姉妹か。古物屋で見つけた自分以外の誰も買わないアンティーク家具のような引力があると思う。最終曲の『今、どうしたら』では「ガラスケースの中から 世界をのぞいても いくら可愛そうと思っても それで何ができるの」と再びディストピア幻想に引き戻される。個人の感想だがイースタンユースの音楽にふれる度に深夜の空気というのか世間が眠る時間に働く人間が発信した言葉だと感じてしまう。谷山浩子の音楽性もそれと同列のものかと。午前三時からが本番ならば前日は午後七時には就寝しなければ体調は整わないだろう。もう子供じゃないのにそんな早寝をして放送に全力を注いだ谷山浩子を今更ながらねぎらいたい。