今あの髪型を見るとげんなりするのは

1月21日、近藤ようこ 著『仮想恋愛』(青林堂工藝舎)を読む。お前は青林堂がらみの漫画しか読まないのかと言われると返す言葉もない。前回この場に女優の川栄李奈を某局のアナと間違えて局アナがコンビニの広告に出てもいいのかなどと誰にからんでるかもわからない言いがかりを発信してしまった。全く面目ない。本作は漫画家の近藤ようこが81年から82年まで『漫画エロス』などの青年劇画誌発表した短編をまとめたもの。巻末のあとがきには自身はガロ出身と思われているがデビューは「いわゆるエロ劇画誌の仕事が中心」で「こう描けば男性読者は引っ掛かるのでは」という心算もあったと記される。それは『ホメオスタシス』の中の「日々干からびていく私の処女膜」、「タンポンもつっかえる」といった主人公の独白のことか。生理にまつわる話題もエロ話の枠内だった時代が思い出される。その当時、生理用品のCMに桑田佳祐が起用されて話題になったが。切り口はどこからでもという路線を貫くなら今はLGBTのタレントが起用されていたかも。CMが時代の気分を牽引するなど努努信じられなくはなったが。その主人公の髪型がクレオパトラ風のソバージュ。阿佐ヶ谷姉妹のどちらかが若い頃トライして余りの不出来に自宅で泣きながらパーマを落としたとラジオで話していた。女王様顔にしか似合わない高貴な髪型なので下女は不可ということか。だが女王様をどうかしてみたい男性側に媚びる向きもそれを選ぶ女性側にはあったと思う。今あの髪型を見るとげんなりするのは当時の浅はかな己の欲望と向き合わされるからでは。ならば次に萎えるのはストレートパーマかと言われると不安だが。巻末のあとがきにはデビュー時と近年と二篇ある。デビュー時の方では「月と水の信仰世界、女が神とともにあった時代を私は憧れる」などと語る。80年代後半のこと、矢野顕子のファンだという女友達にどこが好きなのと問うと太古の女性みたいで神神しいといわれなるほどと思ったが。太古の女性をシンボルに何がしたかったのなどと今頃問い質すつもりもないが近藤ようこは現在では少女漫画でも少年漫画でも青年漫画でもない独自のジャンルを築いた大家に。『愛の生活』の「なんだな なんというか生活とは女のパンツを見飽きることかな」と同居人にぼやかれて不機嫌になる主人公の姿はエロ劇画誌が恋人代りの独身者には真人間への案内図に思えたか。「隣のお姉さん」と共同トイレの利用時間を微調整していたのが私だけの貴重な蜜月。

お前は何を現代詩的と思っているのか

1月23日、『ひらく夢などあるじゃなし 三上寛 怨歌集』(URC)を聴く。本作は歌手、三上寛が72年にURCレコードから発表した作品集。三上寛が一躍その名を知られるようになるのは71年のフォーク・ジャンボリー出演からだとなぎら健壱の『日本フォーク大全』にはある。オープニングは『あなたもスターになれる』。私が親元を離れて一人暮らしを始めた頃、池袋西武のエレベーターにて赤ん坊を抱いた三上寛と乗り合わせて動揺した。東京ならばこそひょんな場面でスターに会えるのかと。本作はやはり酔いつぶれた枕元から聴くでもなしに聴くものかと思ってそうしたが。歌詞カードでいくのか片目の赤トンボ 貴様は時々叙情的だ」と聴こえていたのは、「キンタマは時々叙情的だ」であった。モノが粗末なアーティストに限って脱ぎたがる説からすると三上寛も粗末なはずだがそうでもなさそうな。72年に私は7才。田舎町でも学生たちがストリーキングをしたなど騒がれていたがハプニングはその頃から苦手で初期の三上寛を全編聴くのも初めて。『ひびけ電気釜‼』の「生命は神の八百長よ 希望の道は下水道だ 地球はことばのテンプラよ」は現代詩的と感ず。お前は何を現代詩的と思っているのかと問われれば何というか言ったもの勝ちの大風呂敷合戦のような側面が現代詩には今もあるのでは。生態系の破壊され始めたディストピアの壁に殴り書きされる最後の一行を押すな押すなと競い合っているような構図が今もあるのでは。「わめけ ガスコンロ‼ みごもれ こけし‼」の一行に私は先だって拾い読みした最果タヒの詩にも自分が自分を産むという描写があったのを思い出した。自己完結で文句あるかと凄まれれば文句は一つもないのだが。『誰を怨めばいいのでございましょうか』の「叫んでいるうちは幸せなのでしょうか ガンバリましょうと言えないのが とても残念です」には若気の至りのハプニングの後始末といった感がありそれはしらふで聴いても充分美しいのだ。『青森県北津軽郡東京村』の「コカコーラのドブロク飲んだ」のくだりには近年の首都機能分散構想が見え隠れするが。東京村も道の駅も建ててしまえばどうということないもの。むきだしのコンクリートに裸電球が吊られた地下蔵がアートな空間かタコ部屋か判断するのも手持ちの大風呂敷次第なのだが包むまでもないというのが昨今の生活様式ではある。包んだ方がオシャレですよと勧める人物のオシャレ感覚こそが厳しく問われる時代であり。

本作に登場する東京名所も正しく68年

1月25日、『泣いてたまるか 東京流れ者』をDVDで観る。『泣いてたまるか』はTBS系で66年から68年まで放映された「根性ドラマ」と当時呼ばれた作品。渥美清演じる主人公が活躍する一話完結物で本作『東京流れ者』の脚本は内田栄一。『妹』、『バージン・ブルース』などの映画を手がけ演劇でも金子正次や田口トモロヲを門下に活動した70年代の不良性感度を肉付けした立役者。本作の渥美清もシリーズ中もっともストリート風の軍用コートに犬の首輪と貴重品を鎖でつないだ不良ぶり。迷彩服や革ジャン同様この類を若者が普段着にする前にテキ屋などが着るというワンクッションがあったと気づく。その主人公がばったり出会った迷子の少年に東京中を振り回されたあげく虎の子の五十万まですられても気づかないという間抜けなエピソードを当時の流行歌が飾る。『男ブルース』、『世界の国からこんにちは』、『恋のフーガ』など続々と流れるヒット曲に合わせて会話のオチがついたりコケたりする演出は後のMTVの様。もちろん『東京流れ者』もラストで廃品回収業者になった主人公がビル荒らしに間違えられて警官隊に追われる場面に使われているがどの選曲も秀逸。本来ドラマの主題歌はプロレスの入場テーマの様なものでは。メインエベンター級の選曲で前座級のレスラーが入場してはひどく興醒めである。が、バブル期には『悲しみのアンジー』や『ホテルカリフォルニア』を主題歌にした強引な演出のドラマもあったことは忘れられている。本作に登場する良家の不良少年が主人公を振り回す東京名所は新宿から羽田から銀座。現在では下北沢も二子玉川も全国区の東京名所だが。東京都民でもそんな街があるのかと疑うほどマイナーな地区をあえて舞台にする演出の始まりは『男はつらいよ』なのだ。本作にも松村達雄太宰久雄が登場するし同シリーズには山田洋次脚本の『男はつらい』もある。主人公と少年が束の間の友情を温める羽田空港のレストランの場面。窓の外のベランダにてあれをごらんなどと指差す家族連れの動きがどうもコント地味てわざとらしい。よく見ればこの場面はスタジオ撮りのセットだ。塚本晋也監督の最新作『ほかげ』では焼け野原を再現する代わりに焼け残りの居酒屋を細部まで作り込む職人技が外の様子も観客に想像させることに成功していたことを思い出す。本作に登場する東京名所も正しく68年の東京に間違いないのだが。表面的には明るく健康なドタバタ喜劇の奥底に時代の闇と人の心の闇がちらちらと垣間見えるシリーズのキラー球。

この人が恩人ならあの人は神様という

1月27日、橋本治 著『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマ―新書)を読む。本書は作家の橋本治が05年に「敬語とはいったい何か」をひもといたもの。昭和が終わる頃、皇室関連の特別番組で森口博子が変な敬語を使わないか視聴者はヒヤヒヤした。が、何も問題は起きなかったし森口博子は今結構エライ。学習室で机の上に飲料を置くだけで注意される図書館と中味を飲んでも何も言わない図書館がある。どちらでも好きな方を選べばいいのだが選べない場合もある。口のきき方ひとつで何をされるかわからない世界は確かにある。そんな世界に気がつけば立っていた時のため正しい敬語は必要なのだ。「目上の人ってどんな人?」の章では「遠山の金さん」を観ればわかるようにえらくない人はえらい人の顔を見てはいけないのが敬語的な決まりごとだと著者は語る。私はなぜかピーター・バラカンのラジオ番組ではラジオネーム禁止という決まりごとを思い出した。別に悪いことしてないでしょということなのだろう。私個人が性質的に悪いと感じるのは自分で考えたたけし軍団のような筆名であちこちに投書する人物。神出鬼没の大泥棒みたいなスタンスが苦手でバンクシーも苦手。ああいうのは胸がすっとするという人が十人に一人もいなくなったらやめてしまうであろう点も不満。老夫婦が経営する個人商店のシャッターにスプレーアートを試みる若者とそう変わらないだろうと。「敬語ができあがった時代」の章では偉さのランキングでいえば第五位のあなたが一位の人と話す時にはすぐ近くにいる三位の人にも敬語を忘れてはいけないど著者は忠告する。「怒られたあなたはへたをすると罰せられるかもしれません」という一行が重い。この人が恩人ならあの人は神様という例はどんな世界にもある。が、そのことにどこまで本気になるかは一対一の肌合いによると私には思える。すぐに口のきき方を知らないなどと本気で怒る人物は三位以下の方が圧倒的に多いよう。「正しく使うとへんになる敬語」の章では「もうわかったと思いますが、敬語というのは、古い時代の言葉なんです。だから、これをちゃんと正しく使いすぎると、時代劇になってしまうのです」と著者は説く。ここは時代劇でいきましょうと思っている同士でなければどうしようもなく空しいやりとりになることを肌で感じる時もある。おやすみの所申し訳ありませんなどとこちらのスタミナ切れを狙ったセールス電話にも適切な敬語はあるのか。だからそこは「テキトーに使え」というのが著者からの提言。

それこそおもしろまじめな役者ぶり

11月20日、『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』(79年 日活)をDVDで観る。監督、山本晋也。本作は漫画家、赤塚不二夫が原案を立てプロデューサーと脚本を兼ねる高平哲郎ともちろん山本晋也監督と関係者一同が飲んで騒いで生まれたパーティー映画。主演の柄本明は当時無名のはずだが82年の『宝島』のインタビューでは「昔は面白かったといわれて腹が立って」とこぼしている。けれど今本作を観返しても怪優、柄本明登場のインパクトが再認識されることはない。「歴史は全部そーゆー風になってるわけですから」と本人が語ったように本作の柄本明の面白さは賞味期限を過ぎている。たこ八郎ベンガル由利徹その他の無責任な客演ぶりもそのルーズさが小気味よく今日的だったことを共感できる世代は限られているし小川亜佐美のクレオパトラ風の髪型が一周回って新鮮な時代に私は立ち会えないと思う。参加した人全員が忘れたつもりのパーティーを今さら振り返っても空しいだけかも知れない。が、発案者の赤塚不二夫だけは責任を持ってふざけている。それこそおもしろまじめな役者ぶり。一応のストーリーは柄本明演じるダメ亭主が小川亜佐美演じる妻と離婚してお互い自由に生きるつもりがたった一日で復縁するまでのドタバタ劇というか。高平哲郎のコントの作風には当時、景山民夫が激怒していたが。由利徹 演じる医者が「オペの用意をしろ」と告げると看護婦が片乳をつかんで「バカ、オッパイじゃねえの」と怒られたりする田舎芝居が許せなかったのだなとそこだけは納得。40年以上たった今もくだらなすぎると心から言える。本作のエンドロールにはクレジットされているタモリがどこに出ているのか繰り返し観ると柄本明が鉄道自殺する場面で別撮りのアップで登場する運転士がどうやらタモリくさい。が、DVDのパッケージにはクレジットされていないので何か事情がありそう。由利徹の衣装がまんま中洲産業大学タモリ教授なので恐らく代役なのだろう。クレジットに由利徹(先輩)とある通り当時の由利徹はとっくに卒業した母校の部活に現れては直接関係ない後輩に頼まれもしない指導をする先輩の様だった。よほど図太くないと引き受けられない仕事ではある。が、本作自体が既に「やりたいことは全部やっちゃった」という赤塚不二夫(役名)なる不惑の漫画家の頼まれてもいない特別講義といった感も。勉強になりましたと諸先輩方に今も心から言えるのは現場では踏んだり蹴ったりのはずだった助監督の滝田洋二郎か。

渡世の義理と経営者の孤独は同意語か

11月19日、はしだのりひことシューベルツの『未完成』(東芝音楽工業)を聴く。本作がレコーディングされたのは68年11月から69年4月の間。私はシューベルツは70年代初めに活躍したバンドだと思っていたが68年のフォークルの解散時には既に準備していたそう。関西フォークにはAFLという寄り合いのような団体がありその中でメンバー交換を繰り返していたという。が、シューベルツ結成時にはもうジローズやザ・バニティーに所属していた杉田二郎越智友嗣井上博の三人は切り離されたメンバーにどう対処したのか。その辺りは「日常茶飯事のことであったから不思議なことではなかった」と解説文にはある。またそうしたエピソードも「京都フォーク界におけるはしだの実力が容易に想像できる証左である」とも。私は東京進出時のシャ乱Qがテレビ局に挨拶回りする姿を見たことがある。その際メンバーの一人が松葉杖をついてギブスを引き摺っていた様子におどろいた。シャ乱Qも同級生バンドではないからいつシャッフルされるかもわからない不安の中でのデビューだったのか。69年に『風』でデビューしたシューベルツはヒットにめぐまれた。印象的なトランペットのイントロを聴くと今でも涙が出る人物には二通りあるように思える。ここから出発した者とここで降りることになった者と。本作には北山修も全面的に参加しておりそれが余計にうらみっこなしの「渡世の義理」の様なものを感じさせる。はしだのりひこは案外親分肌なんだと思いつつ内ジャケの写真を見ると当時のはしだのりひこはまるでデイヴ平尾並の親分顔だった。北山修は先だって出演したラジオでフォークルには杉田二郎を迎える予定を加藤和彦の案ではしだに決めたのは彼のプロデュース能力と語っていたが。素人集団があの手この手で応戦していたのはマスコミであり当時のマスコミの反語といえばアングラである。ジャックスもフォークルもGSとは呼べないのは微力ながらもマスコミに抗う姿勢があったからでは。師匠も兄弟子もいなくとも自分たちだけでやるという気勢が逆にマスコミに愛されることもある。渡世の義理と経営者の孤独は同意語かも知れず。本作には特典として『何もいわずに』のシングル・ヴァージョンが追加されている。アルバムのラストを飾る同曲から一変して下世話なムード歌謡調に寝返ったアレンジに。編集者の言いたいことは私にもわかる。わかるがそんなシューベルツに石を投げた当時の若者を小学生の私が信用できたか。聴けば聴くほど悩ましいデビュー作。

要は踊らされるなよということだが

11月17日、森達也 著『たったひとつの「真実」なんてない』(ちくまプリマ―新書)を読む。本書は映画監督、作家で大学教授でもある著者が2014年に書き下ろしたコラム集。著者がこれまで発表したコラムはいずれも一貫して「情報は公正でもないし中立でもない」と主張している。要は踊らされるなよということだが。躍らせる側にもまず踊らないだろうと思っている人物もいるはず。ローリング・ストーンズの初来日公演はテレビ中継されたがその際、VIP席で大暴れする男闘呼組の映像をはさんだ側の狙いは視聴者に正確に届いただろうか。だから男闘呼組はまぶしいと思う層とだから男闘呼組は目も当てられないと思う層の割合はいかがなものだったか。局アナなのにコンビニの広告に出ていいの?と思うとほぼ同時にそう引っかけるのが狙いかとも私は気付く。が、何やらいやらしいことをするからそのコンビニはもう利用しないかといえばそんなことはない。まだ広告してるのかとつい足を運んでしまう。その場合には局アナを起用する側の狙いは命中しているのだ。著者は「全滅」は「玉砕」、「敗走」は「転進」など戦時下の日本の新聞の言葉の言い換えを問題視する。そしてそれらは現在も続いているとも。私は背番号がマイナンバーになっても国民の警戒心は変わらないと思う。が、マイナンバーを発案した人物には最大級の表現で抵抗したい。どうでもいい件をちょっといじっただけで莫大な企画料を手にする人物は一般企業にも多数いるとは知りつつも。これまでも度々著者が扱ってきたやらせとは何かについて本書ではイギリスのオーディション番組を例に探求する。いかにも場違いな田舎のおばさんが世界的な歌姫に変身する瞬間には先に実力を知っていた演出側の狙いがあったとか。例えば遅かれ早かれ亡くなるだろう著名人を追うレポート同様に必ずブレイクする芸能人をマークするのはやらせとは呼べないのではと私は思う。「すべての情報は真実ではなく解釈」と言いきる著者とかつては「世界を演出したい」と語った大島渚との距離は近いような遠いような。著者の最新作『福田村事件』は同じ時代の主義者や被差別者を描いた瀬々敬久監督の『菊とギロチン』よりも引き込まれたし東出昌大も好演していた。田中麗奈の大正モガ振りも胸のすく配役だったしキャスト全員が林間学校のように発奮していたよう。映画監督、森達也のメガホンはそんなに悪いことはしていないのに気付けば日陰に追いやられた俳優を今後も蘇生させそう。