江戸末期、時代の節目に一攫千金を

12月21日、渋谷ユーロスペースにて、『斬、』(海獣シアター)を観る。監督、塚本晋也。国際俳優としても活躍する塚本晋也は今や「藤岡弘、」のように国内外に豊富な人脈と微妙なしがらみを抱えているのだろうか。本作は前作『野火』で戦争映画に初挑戦した塚本晋也が今回は時代劇に初挑戦したもの。江戸末期、時代の節目に一攫千金を夢みる野武士たちと農民たちによる行き場のない青春剣劇といった感。市川崑の『股旅』や勝新太郎の『新・座頭市』のようなリアルな切り口の時代劇を目指したという監督の狙いを感じたのは序盤。塚本晋也演じる浪人が通りすがりの武士と斬り合いになる一部始終を農民たちが見守るというより息をひそめて観戦する場面。常日頃は互いに助け合いながら生きる弱者のもう一つの顔を巧みに描いている。だが、オープニングの殺陣で画面が意図的にぶれる演出は残念。力のある画面にしようとカメラそのものを振り回す手法は画像が乱れるとテレビそのものを叩き始める昭和育ちの身体感覚でありそれが現在どこまで届くのかと。ただでさえ貧しい農民たちの生活に割り込んできた野武士たちとのいざこざからそれまで浪人に師事して都にのぼるつもりでいた池松壮亮演じる主人公の心は迷う。武者修行と本物の斬り合いの違いを知ると蒼井優演じる恋人も気がかりになり到底自分には人を斬ることはできないのではと。しかし一方で本物の刀が体に食い込む修羅を初めて見た主人公は抑えきれぬ興奮から自身の股間をまさぐりしごき始めたり。『野火』で人肉食いだけはと拒み続けた主人公が自身の肉片ならば臆せずパクリとやる場面を思い出す。人として一線を越えてしまいそうな際はセルフサービスがおすすめということか。三週間で撮影した手弁当スタイルによる正味80分の本作にはどこかロマンポルノの香りも。ラスト近くに流れ始める石川忠の音楽を噛みしめるように聴いていたのは直前に読んだ関連記事で訃報に触れたせいばかりではないと思う。映画音楽というものが作品のイメージの大部分を強烈に決定づけるような体験は今の時代にもうないと思っていたが。その意味でも本作は時計の針をほんの少し戻したのでは。針なんか戻してどうするという声ばかりでもないことはまだ間違いないのだ。笑わせるつもりなどないはずの血煙りと断末魔の叫びがどこかコミカルに見える塚本作品の魅力はやはり遅ればせのファンだという唐十郎であり昭和の見世物小屋的である。

らしくもないことはやらない姿勢を

12月20日、EXシアター六本木にて『岡林信康デビュー50周年コンサート 東京公演』を観る。予定されていた山下洋輔スペシャル・カルテットの出演は山下洋輔の負傷欠場により中止に。「どうも沢田研二です。今日は満員なんでやる気になってます」と登場するやいなやのギャグはうけたものの。「山下洋輔くんのファンには申し訳ないので料金を半分お返ししたりはしません」との口ぶりには決意のようなものが。前半一時間後半一時間の長丁場を岡林信康は用意された弾き語り用の椅子には座らず立ったまま歌い切った。残りの歌手人生を悔いのないものにというのが今年のツアーの主題ではあるが。「観てるお客さんらもひょっとしたら見納めですよ」というのは古参の落語家のくすぐりのよう。この切り口でもう十年引っ張るための肉体づくりも万全に見える。思えばジュリーと岡林はデビューは一緒でも岡林が二歳年上の同級生。それ以上にロック対フォークという対抗意識が今もあるよう。ロックに転向して大半のファンを失いエンヤトットを見出した時は残りのファンも去って行ったいきさつを笑まじりに語る余裕と裏腹の台所事情もあるよう。「加藤和彦くんと作ったテクノ作品も失敗した」経緯など忘れていたが。加藤和彦泉谷しげるを大人のシティロッカーに演出した妙技の延長で岡林のテクノ化を試みたのか。高田渡はその頃息子の高田蓮に父さんもYMOみたいにやればと言われて「悲しい顔をしていた」という。らしくもないことはやらない姿勢を貫けるのも身軽さゆえ。当時の岡林の胸中を察することは難しいが。78年に発表した『ミッドナイト・トレイン』は何ということもない岡林流シティポップスだが。当時プロモーションで嫌々出演したテレビの歌番組で一緒だったリタ・クーリッジがこの曲に大変感動してくれたことが忘れられない思い出だとか。去年のツアーでも感動なんて探り当てるものじゃないのだというようなことを語った岡林信康の大きな節目となる本公演はこれで成功なのでは。山下洋輔の代役に急遽エンヤトットバンドからピアニストの加藤実をフル出場させたのも不思議とそうしょぼくれたものでもなく。予定通り「本当は山下洋輔くんらとぐっちょんぐっちょんやって」いたら奇特な観客もやがて爆発していたかもしれず。大体50年前に岡林信康の音楽を青春の応援歌にしていた若者たちが今こうして暮れの六本木のEXシアターに結集している現実は美しいのかグロテスクなのかどうにも判断がつかないのだ。

観客層は評判通りおじさんと女のコが

12月9日、昭和女子大学にて大森靖子の『クソカワ PARTY』TOURを観たがもう二ヶ月前のことなのでアルバム『絶対少女』を聴きながら印象に残っていることなどを記す。観客層は評判通りおじさんと女のコが大半。おばさんと男のコが寄り付かない実情は読み取れなかったが舞台効果の中世の首狩り鎌と巨大熊の着ぐるみにはわかる者だけわかればという居直りを感ず。『絶対少女』のジャケ写は蜷川実花。暮れの紅白で椎名林檎宮本浩次のコラボを観た私はたじろいだ。もうこうなるとロックでも何でもないんじゃないかと。もうこうなると「世界のニナガワ」みたいなものじゃないかと。「世界のニナガワ」は世界でやればいいじゃないかというのが言いくるめならば紅白歌合戦は今や世界に届いているというのも言いくるめでは。それも時間の問題だとしたら椎名林檎宮本浩次のやっていることは時間稼ぎである。現在諸事情あってメディア露出にムラがある大森靖子もそれに続く援護射撃をやっているようにも感ず。「だからSEKAINOOWARIより 終わってるわたしにできること」とはいえセカオワの何倍も充実しているようなバンドの佇まいの方が印象的で大森靖子のそれは過酷なルーティーンにしか観られなかったが。それでも熱心な声援を送るファンと大森靖子のつながりはルックスもダンスも十人並みでも人当りだけで固定ファンをつかんでいるストリッパーとそのファンのつながりに似ている。おばさんと男のコの来るところじゃないのは当然だったか。「いつかは仲良くしたいけど」当分の間は徹底抗戦だというようなことを宣言していたその対抗勢力の中には男のおばさんのような私も当然含まれるのか。私が初めてNHK大森靖子を観たときは飢えと渇きをヒステリックに演じているその佇まいにたじろいだ。何にヒステリックになっているのかといえば恐らく飢えても乾いてもいなければ怒ってはいけないのかという始末に負えない怒りがそこにはあるのだ。それは私が蜷川実花のアートワークを初めて見たときの印象と似ていた。アジア版ディズニー産業のように制作費はかけてはいてもどこか安価な印象はそれが何かの埋め合わせのつもりだからでは。何を埋め合わせたつもりなのかはおじさんと女のコだけでパーティーを繰り返している間はわからないと思うが。あるいは何も埋め合わせてはいないのかもしれない。終演後はすみやかに帰っていくおじさんと女のコたち同様に私もひとしきり楽しんだ後はただ帰りたいだけだったのだ。

ライブにはそれなりの覚悟を持って

11月26日、岡林信康『森羅十二象』(ディスクユニオン)を聴く。本作は68年に『山谷ブルース』でデビューした岡林信康の50周年記念アルバム。全12曲は過去作のセルフカバーを多彩なゲストと共演したもの。京都フィルハーモニー室内合奏団、坂上幸之助、矢野顕子サンボマスター山下洋輔といった面々をプロデュースしたのはディスクユニオンの矢島礁平。だがディレクションには岡林信康も名を連ねてクレジットされている。キャリアの集大成のような作品に招聘したことにどんな理由がという点で一番気になるのは矢野顕子か。私はゴールデン・カップスのドキュメントの中で当時の熱狂ぶりを語っていた矢野顕子を思い出した。自身のルーツミュージックといっては大袈裟なのかもしれない。只好きなものは好きだと何年たっても言える自分でありたいという主張を感ず。『チューリップのアップリケ』をここに至って岡林信康矢野顕子が何の屈託もなく共演できるようにそれぞれのファンは自然と向き合えるかどうか。知らなければ見下されることばかりの異文化圏に下駄ばきでやあやあと踏み入っていける超個性なぞそれこそひとにぎり。それでもこの共演が今後何らかの記念碑になってくれたらと思う。つづくサンボマスターとの『それで自由になったのかい』は逆にそんな堂々と肩組み合っていいのかと思うほどの寛容ぶり。『私たちの望むものは』はもう二度とやらないという岡林が『それで自由になったのかい』ならば若い後進ともう一度やれるのはなぜか。「今ある不幸せにとどまってはならない」のならば今ある不幸せからオーバーランしなければならない。が、「新しいお前さ」と自分を鼓舞することは誰でも何歳でもそのつもりでいさえすればできることである。サンボマスターはTBS制作の豪奢な学園ドラマのテーマ曲を担当したばかりでありまた違う意味でオーバーランしているような。が、その類の非難なら散々浴びてきた岡林とのコンビネーションは絶妙。本作のクライマックスを飾る山下洋輔だが先日自宅で転倒しライブ活動に復帰できるのは12月以降になるとか。12月20日の記念コンサートのスペシャルゲストには間に合うのかどうか。ただしエンヤトットバンドも一緒なのでまだ安心というか不安というか。最悪メインはエンヤトットをたっぷりという構成になるかもしれないのだ。ライブにはそれなりの覚悟を持って挑もうかと思う。私が年の暮れにジャズを聴きに出かけるなどは浅川マキの文芸坐公演以来で今からもう感慨深いのだ。

只、一端預かった役者は搾れるだけ搾る

11月16日、鴻上尚史 著『鴻上尚史の俳優入門』(講談社文庫)を読む。本書は劇作家で演出家である著者が中高生向きに俳優という職業についてレクチャーしたもの。高校演劇コンクールの審査員として青森に出向いた著者が帰りの東北新幹線の中でコンクール参加した高校生の男女に呼び止められる。自分達は今後本気で俳優を目指すつもりだが業界のことは何も知らない。くわしく教えて欲しいとせがまれ、じゃあ東京に着くまでなと走る列車の中で集中講座は始まる。映画、テレビ、演劇と各ジャンル別に仕事の内容を解説する章の「映画の場合、1ヶ月かけて1日平均3分間のドラマを撮影する」には私もそんなものかとおどろいた。相米慎二の丸1日リハーサルしてもその日に本番を撮るとは限らないというペースはそれ自体はそう強引な撮り方でもなかったのだ。只、一端預かった役者は搾れるだけ搾るという。「低予算の映画は速撮りだが予算がたっぷりあるネット作品はゆったりした速度で」というくだりにもネット作品は予算があったのかとおどろいた。私はネット配信ドラマというものを何やら不気味なものと敬遠していたがそれらに予算はたっぷりあると知らなかった。それらはナショナル自転車やヤクルトラーメンのように巨大企業が実験的に別業種にも手を拡げたものだったのだ。それらはやはり何やら不気味なものだったのだ。具体的に「どうやって俳優になるんだろう?」という問いに答える章では上級者向けに「ただし、君に本当に演技力がつき、その劇団の舞台で評判になれば、他のメディアや劇団は、放っていても君に仕事を依頼しに来る」と著者は解説する。私が今どきの小劇場の青田買い事情に気付いたのは楽屋口に“出演者に面会したい方は主催を通して必ず事務室内で”と貼り紙してあるのを見たとき。30年昔は出演者が観客をお見送りして名刺を配ったり交際を求めたりしていたがそんな舞台に限って内容は稚拙であった。昔は情報誌からランダムに選んだ小劇場の芝居を自腹で観るには相当な勇気が必要だったが今はどれもチケット代なりに楽しめる。やはり時代は変わっているのだ。「日本では、まだ演劇専門学校は主流になっていない」、「でも、だんだんと、学校の重要度は増していくだろうと僕は思っている」と語る著者が何を考えているのかオールドエイジの私にはもうわかる気がする。が、鴻上先生に相談しようと現役高校生が勇気を見せる対照にある著者ならばそれもさらなる夢の奥深く究極のといった話でもないのではないか。

それでもアル仙にしか描けないものは


11月7日、『笑いのカイブツ』(秋田書店)を読む。本書は「元伝説のハガキ職人」のツチヤタカユキの私小説史群アル仙が漫画化したもの。ツチヤには対人恐怖症の傾向がありアル仙にははっきり病名の付いた精神障害がある。この両者をブッキングする制作者も図太いが。こころの病気を公表しながら漫才のボケ役を演じる芸人はいる。病気込みで笑い者にしているだろうと言われればその通りだが。今日辺りはどんなコミックスが買いかなと私が書店に出向きゴマンとある新刊本の中から選んでいたのもその部類の訳あり商品だった。それでもアル仙にしか描けないものは初の原作ものにも色濃く息づいている。それはこころの病気を患った者しか知らないパニック時に現れる幻影である。ゴミ袋の中にうごめく無数の顔が一斉に毒づく、路上で吐いたゲロの中に“お笑い大喜利東京ラジオハガキ”と頭の中の課題が文字になって浮き上がるなどという描写は健常者には発想できないしそれゆえ衝撃なのだ。ところでハガキ職人なる者は雑誌やラジオにギャグを投稿して芸人や作家にスカウトされようとする段階にある者だがツチヤの場合は過去に劇場出入りを許される作家見習いでありながら落伍し再度投稿し始める。一度目は出会いにも恵まれなかったということか。「あんなクソ共に構うてられへん」とむくれるくだりに私はアングラ劇団時代の竹中直人豊川悦司の写真を思い出す。それらは現在と違って凶悪そうにささくれだっていたかというとそうではなかった。ずっとそんな世界で細々と食いつないでいくだろう温和でマイペースな表情で只そこに写っていた。後に成功する者の下積み期とは案外そんなものなのだ。最後まで敗者復活戦を戦い抜くつもりのツチヤは空っぽのリングでパンチドランカーを演じているよう。「もう後戻りはできへんのや…カイブツよ…」と誰に向けてか何度目かのファイティングポーズを決める醒めきった絶望の顔は果たしてツチヤひとりだけのものだろうか。野沢直子が全盛期に突如として勉強し直してきますなどと渡米した昔と渡辺直美の今とでは何かが変わったのだろうか。「絶望的やな」と悟りすます主人公の仏頂面のその下にはもうひとつの顔があるのでは。うらみつらみで生きている敗者たちにモチベーションを与える慈善事業者のようなことをはっきりと提言し始めたお笑い産業はいずれ行き止まりだとツチヤは語らないしアル仙も描かない。ひとまず健常者である私はそう感じた。

あれは女優魂というよりガッツである

11月2日、テアトル新宿にて『止められるか、俺たちを』を観る。監督、白石和彌。60年代後半の新宿でフーテン少女から若松プロダクションの助監督となりやがて国内初の女性ピンク映画監督となる筈だった吉積めぐみの23年の生涯を描いた本作。ではあるが演じるのは当時を全く知らない若い俳優たちであり演出するのは若松プロ出身で近年『実録犯罪物』で人気監督の仲間入りを果たした白石和彌。これまでも火の粉は充分浴びてきただろう白石監督が恩師である若松孝二の苦闘時代をあることないこと好き勝手に描いた本作は評判通りの快作。若松孝二役の井浦新は故人のモノマネでこんなに笑っていいのかと思う出来栄えである。その他の足立正生、ガイラ、オバケなど若松組の珍キャラ達もそれぞれ好演しているが肝心の門脇麦演じるめぐみはパワフルな男優陣とは対照的に物憂い。時代の空気を背負わせたというより吉積めぐみの存在が今では空気のようなものなのだ。数枚の記念写真とおぼろげな当時の噂話だけを頼りにめぐみを演じた門脇麦のひたむきさとギャグに走った男優陣を比べると別な意味で問題作にも感ず。60年代を振り返ってあの時代は単に映画を演出していたのではなく世界を演出していたと語った大島渚と心意気だけは同じつもりでいた若松組。その末端でもがいていためぐみの相談役は映画の現場に誘ったオバケこと秋山道男。本作に登場する若き秋山道男はめぐみと唯一同じ目線でなぐさめ合える天使のような存在。私は80年代末にトークイベントで見た秋山道男を思い出した。仕事絡みで知り合った女性とその場限りの関係を持ったことはと司会の内田春菊にいじられて「僕はアフターケアもするから」とムキになっていた姿が可笑しかったが。本作を観て男の現場で働く女の子の悲哀をまだ天使だった頃の秋山道男に思い知らせた人物こそがめぐみだったのかと。今も明らかではないその最期も本作では酩酊しながら睡眠薬をかじり郷里の母親に電話をかける孤独な自死として描かれている。「実録物」で注目された白石監督の作品には本当にあったことだからしょうがないでしょうという開き直りというのか至極クールな切り札が字幕となって登場するが本作にはそれがない。餞の言葉は「この映画を われらが師 若松孝二こと この時代を駆けた人々に捧げる」のみ。ならば己自身がスペシャルサンクスなクレジットを体まるごと捧げようとした門脇麦のガッツにこちらも燃えてくる一本。あれは女優魂というよりガッツである。この時代の心意気である。