お前は何を現代詩的と思っているのか

1月23日、『ひらく夢などあるじゃなし 三上寛 怨歌集』(URC)を聴く。本作は歌手、三上寛が72年にURCレコードから発表した作品集。三上寛が一躍その名を知られるようになるのは71年のフォーク・ジャンボリー出演からだとなぎら健壱の『日本フォーク大全』にはある。オープニングは『あなたもスターになれる』。私が親元を離れて一人暮らしを始めた頃、池袋西武のエレベーターにて赤ん坊を抱いた三上寛と乗り合わせて動揺した。東京ならばこそひょんな場面でスターに会えるのかと。本作はやはり酔いつぶれた枕元から聴くでもなしに聴くものかと思ってそうしたが。歌詞カードでいくのか片目の赤トンボ 貴様は時々叙情的だ」と聴こえていたのは、「キンタマは時々叙情的だ」であった。モノが粗末なアーティストに限って脱ぎたがる説からすると三上寛も粗末なはずだがそうでもなさそうな。72年に私は7才。田舎町でも学生たちがストリーキングをしたなど騒がれていたがハプニングはその頃から苦手で初期の三上寛を全編聴くのも初めて。『ひびけ電気釜‼』の「生命は神の八百長よ 希望の道は下水道だ 地球はことばのテンプラよ」は現代詩的と感ず。お前は何を現代詩的と思っているのかと問われれば何というか言ったもの勝ちの大風呂敷合戦のような側面が現代詩には今もあるのでは。生態系の破壊され始めたディストピアの壁に殴り書きされる最後の一行を押すな押すなと競い合っているような構図が今もあるのでは。「わめけ ガスコンロ‼ みごもれ こけし‼」の一行に私は先だって拾い読みした最果タヒの詩にも自分が自分を産むという描写があったのを思い出した。自己完結で文句あるかと凄まれれば文句は一つもないのだが。『誰を怨めばいいのでございましょうか』の「叫んでいるうちは幸せなのでしょうか ガンバリましょうと言えないのが とても残念です」には若気の至りのハプニングの後始末といった感がありそれはしらふで聴いても充分美しいのだ。『青森県北津軽郡東京村』の「コカコーラのドブロク飲んだ」のくだりには近年の首都機能分散構想が見え隠れするが。東京村も道の駅も建ててしまえばどうということないもの。むきだしのコンクリートに裸電球が吊られた地下蔵がアートな空間かタコ部屋か判断するのも手持ちの大風呂敷次第なのだが包むまでもないというのが昨今の生活様式ではある。包んだ方がオシャレですよと勧める人物のオシャレ感覚こそが厳しく問われる時代であり。