6月6日、渋谷ユーロスペースにて『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』を観る。監督、代島治彦。本作は1972年に早稲田大学で起きた川口大三郎リンチ殺人事件をきっかけに始まる「早大解放闘争」とその後も続いた内ゲバについて当時を知る人々の証言と鴻上尚史演出による再現ドラマをシャッフルした構成の記録映画。「記録として残さなければ、あの日々が忘れられてしまう」という焦りから本作に着手したという監督だが。新左翼を扱った作品に集中する制作側に都合のいいアングルで描かれているという批判は本作にも。問題は若い世代に過剰な幻想を持たせていいのかという点だろう。が、本作を観て60年代の新左翼に興味を持った希少な若者の熱量は90年代にマルコムXに沸き立った若者のそれと同じかと。不条理コントを観ている様な空気感の鴻上演出は逆に奇妙な説得力を持つ。「チンピラじゃないから」と革マルの暴力描写に理性的なブレーキをかける鴻上だが。当時の学生にとっての「正しい暴力」のテキストが東映ヤクザ映画だったことなど私でも知っている。そこはあえて再現しないというならそれも妙技か。社会派映画に出るのは謹慎明けの人気俳優という通例にも飽きているし再現ドラマとは本来いかがわしいもの。『ウィークエンダー』がすっかり封印された今の時代に本作が公開されるめぐり合わせも感慨深い。会場の半分以上をしめる初老の観客も俳優の演じるプレスリーでもいいから今一度再会したいしたいオールド・ファンと同じ気持ちで再現ドラマの中の川口大三郎君を見つめていたよう。本物の川口君も尾崎豊似の涼しいハンサムだったが。確かに「記録として残さなければ」今は存命中の関係者からの返答も期待できない。本作に革マル側の証言者は一人も登場しないのだが。もう亡くなった人物にあることないこと言いたくないし生きていれば対話もできるのだからと思うのは勝手に対立軸の真ん中に立っている通りすがりの観客だけだ。私は本作のドラマ部を鴻上尚史が演出していた22年の夏に病死した宮沢章夫を想う。早稲田で舞台を上演した際、俳優に暴力を振るった責任を取って謹慎中に体調を崩して急逝した宮沢章夫が本作を評価するとは思いにくい。が、全く油断も隙もないスキャンダリストめと誰に言いたいのかというといつの時代も相当ナンセンスなのに充分な好評を得てしまう鴻上尚史にである。これで終わりじゃないぞと個人的に鼻息を荒くしてしまうのは結局そんなところになってしまうのだが。