ももクロにも以前からメタル的要素は

8月22日、ももいろクローバーZの新曲『BLAST!』を聴く。ジャケット上はアーティスト名も英語表記の本作。通常盤のジャケ写はメンバー全員持ち色のスポーツウエア姿だが豪華盤では黒を基調にしたレザー仕立ての忍者姿のものもあり明らかにBABYMETALを意識している。ももクロにも以前からメタル的要素はあったしあまり世界は驚かなかったがKISSとの共演も果たしているのだから決して後追いではない。とは思いつつも本作とベビメタの前作を聴き比べてみれば安物のラジカセでも格差は歴然。ベビメタの方が音圧も抜け加減も上質だった。抜け加減というのはメタル青年がよく「来た来た来たァ」などとのけぞる音像が体を突き抜けるような感覚のこと。USチャートに食い込んだ前作でこの完成度ならば次回作はその見返りで更に高品質な盤を同価格で国内市場にリリースされてしまう。単にアイドルとしてのももクロにはそれは脅威ではない。が、アイドル枠を超えた拡く音楽通にも支持されるアーティストとしての看板にはひびが入りそう。タイトル曲『BLAST!』の中の一節、「諦めるのは まだ早いだろう? 僕のソウルに着火したこの世界はCrazy」には深刻な状況が読み取れなくもない。ももクロだって過去には海外公演も経験済みだがベビメタの攻勢の前には不利である。オリンピック選手と国体選手ほどの差異を生んだのは資本力である。本作エンディング曲『境界のペンデュラム』だってUSチャートに食い込む重厚なメタルナンバーに仕上げる機材も人材もあるにはある。が、国体選手が出入り可能な場所にはまだないのである。オープニング曲『YUM-YUM-の小学唱歌路線は今後のももクロを悪い方向へは導かないのでは。ヤムヤムとは飲飲。中華レストラン「バーミヤン」と今夏コラボ企画を組んだももクロは中国市場に舵をきる。と、言うのは私の一人勝手な妄想だが。これまでの戦闘美少女キャラは今後ベビメタに譲る余裕を見せてもいいのではと思う。中国市場に参入する日本人アイドルグループとして戦闘美少女の次にももクロがイメージを借用すべきは昨年リオデジャネイロ五倫で奮闘した卓球女子団体チームである。首位を逃すも後は一歩も引けない土壇場で意地を見せた姿が首位以上のわけのわからない感動を呼ぶ。あのわけのわからない感動はももクロのこれまで磨き上げてきた持ち味に重なると感ず。3位で号泣しちゃいけないんですかとためらわずに言いたい。

著者と同世代の私には黙々と読ませる

8月20日、スージー鈴木 著『サザンオールスターズ 1978-1985』(新潮文庫)を読む。本書は66年生まれの音楽評論家である著者が小学生時代から聴き惚れてきたサザンの魅力と足跡について検証したもの。著者と同世代の私には黙々と読ませるもうひとつの″ニッポンの音楽史″である。著者が「本書執筆の最大の動機」とする78年6月25日に発売されたサザンのデビューシングル『勝手にシンドバット』こそが日本語によるロックに革命を起こした史実を後付けせず盛りもせず記しておきたいという信念に同世代として共感する。本書の中で著者が問題視する「はっぴいえんど中心史観」をこれまで私は否定しきれずにいた。が、本書を読んで考えが変わったというより奇妙にふっきれた。結局「はっぴいえんど中心史観」の人々は日本語によるロックの教科書を作りたがっている人々であり私の世代にそうしたものは必要ないのだ。教科書が頼りになる後の世代への影響などもあまり心配ではない。今日、教科書を作りたがっている人々がこのままでは心配だからそうしているのだとしたらそれは何が心配なのかとは思う。『勝手にシンドバット』の詞世界の革命性は「胸さわぎの腰つき」にあると語り継がれている。意味が通じないと止める制作部を押し切って生まれた名フレーズを著者は分析する。「歌詞の文脈を追えば、その『腰つき』をしているのは『あんた』だから女性だ。女性自身が『胸さわぎ』をしながらの『腰つき』なのか。そもそも『腰つき』って何だ?」 続く「江ノ島が見えてきた 俺の家も近い」では「前衛的で意味不明な歌詞世界の中で、唯一、具体的な情景情景が広がる場面であると著者はイメージする。多くの人はこのくだりで「俺」は何か乗り物にのって移動しているのだなと思うかもしれない。が、私には「俺」は初めから終わりまで場末のサパークラブのフロアに潰れかけているのだと感ず。床に突っ伏してゲエゲエやりながら頭上で踊る女たちの胸やら腰を見上げているのだと。当然江の島など見えてきてはいない。「俺の家も近い」というのは本来ならば家でやるべき粗相が上から下からもう止まらない己の醜態を打ち消しているのだと。本書の冒頭で著者が「J-POP」のキーパーソンといえる3人と断言する「松任谷由美山下達郎、そして桑田佳祐」の中で最も教科書受けしない人物は誰かといえばそれは言うまでもない。が、78年夏、ピンクレディに飽き始めた多くの小学生がその人物の体現する日本語によるロックを一斉に習得していた。

つまり自作の海賊版をみずから再産して

8月17日、水木しげる著『姑娘』(講談社文庫) を読む。本書は漫画家、水木しげるが貸本時代に残した軍記もの4篇に主題作『姑娘』を加えた編集版。但し初期作品はどれも画が荒く不鮮明。同様の荒っぽい仕上がりの貸本時代の全集が地元の図書館にもあるのだが。本書のあとがきによればこれらはいずれも「原稿はない。一冊残っていた貸本マンガから、コピーにとって復元させたものである」らしい。つまり自作の海賊版をみずから再産して公認版としたシロモノ。そんな荒技が許されるのも恐らく当時は無給で描かされた呪わしい出版元も消滅した今日このくらいのことはさせてもらおうという著者の情念あればこそ。触らぬ神となった著者が当時は「マニアしか読んでくれなかった」軍記ものよりもフロントに置きたかった新作が『姑娘』。姑娘と書いてクーニャンと読む。中国語で若い娘のことを指すが現在戦中派の人間が大陸の女性にこう呼びかけた場合はアメ公、露助に近い蔑称になる。が、それを言い出しては水木漫画の世界へは一歩たりとも踏み込めまい。終戦間際に中国大陸をさまよい歩く日本軍が小さな村を襲撃すると民家にかくまわれていた美しい娘を捕らえる。「戦利品」は部隊長に届けるまで分隊長が責任を持って管理する鉄則から当番制で姑娘を監視させるもすぐに兵隊同士で奪い合いのケンカに。責任を感じた分隊長が自身の寝床に姑娘をかくまって関係を結ぶ。日本軍と関係した娘はもう村には戻れないので「どうか私を妻にしてください」と懇願する姑娘。自分は下士官ゆえ「とても妻をともなって戦争するわけにはいかないよ」と詫びる分隊長。翌日は分隊長の務めとしてか上等兵にも姑娘を差し向けようとするが既に正妻のつもりでいる姑娘に激しく拒絶される。結果分隊長と上等兵はモミ合いから刺し違えに。過失とはいえ「女のことで部下を殺したなんてことになれば死刑だ」と悟った分隊長は自分は戦死したと後の者には伝えろと姑娘と共に姿を消すが。40年後かっての戦友会は観光で当地を訪ねて孤独な浮浪み者になった分隊長と再会する。旧陸軍の生存者として帰国し援助を受けてはと説得する戦友らにこれも運命と固く拒む分隊長。漫画家、水木しげるは運命の悪戯と生涯されるがままのあるがままに絡み合ってきたと私は思う。思うがそれはただ長いものには巻かれろといった凡庸な人生哲学とはまったく異なる。執拗な運命の悪戯にもいずれはみずから折り合いをつけてやろうとするやはり情念の人というか。

ともすればこれが見納めという主旨も

7月22日、鹿嶋勤労文化会館にて岡林信康弾き語りライブ2017を観る。フォークの神様こと岡林信康は3年前より弾き語りツアーを始めた。きっかけはデビューの頃からの付き合いだったカメラマンの突然死だとか。自身にまだやり残した仕事はあるかと問い質した後にもう一度「全国の隠れキリシタンならぬゥ」隠れ岡林ファンと触れ合いたいと決意したそう。やあやあと手を振りステージに登場する立ち姿にはキャリア50年の華が。もう一人のフォークの神様、高田渡が演奏を始めるまではその辺のどうしようもないおじさんにしか見えなかったのとは対照的。本公演のチラシには ″「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「自由への長い旅」…新旧さまざまなあの名曲をお楽しみください″ とある。最低でもこの3曲は演奏するということだろう。興が乗ればもっと懐かしい曲も演奏するし今回だけはエンヤートットは止めておくということだろう。ともすればこれが見納めという主旨もちらつかせてはいるものの宮崎でははっきりと ″岡林信康、最後の宮崎公演″ と告知されたとか。折しもこの日、7月 22日は岡林信康の誕生日。会場は暖かい拍手に沸くが。「71ですよ、くそ面白くもないっすわ」とぼやけばさらに会場は沸く。「僕の唯一のヒット曲」である『山谷ブルース』の歌い出しにも拍手とどよめきはそれなりにあったが。「他の会場ならここでドカーンですよ、もう一辺行きましょ」と半ば強要されつつもドカーンと。最新作である初孫の奏太くんに捧げる「じいじの歌」は忌野清志郎の『パパの歌』同様にオールドファンからは好々爺なんてイメージじゃないと不評だった。が、最近になって常連客から突然涙が出るほど感動したと打ち明けられ「感動なんてそんなあやふやなものかも」と気づいたと言う。自身がディランにならってバンド志向になりはっぴいえんどと共にツアーに出ると「多くのファンを失ってしまった」道行きの発端は「体中に電流が走ったような」気がしたザ・バンドのエレキサウンドだった。が、今思えばそれも何かの勘違いだった気もするとか。もはや半世紀近く昔のことでもはっぴいえんどという名詞が出ると会場には妙な緊張感が通り過ぎたが。アンコールには公約通り『自由への長い旅』をスタンディングで演奏する。ギターの位置は心做しかだらりと落武者風にやや低め。それでも見事最後まで歌いきる。終演時刻も夕方5時とシニア対応。「いい誕生日になりました」と悠々と手を振り去って行く後ろ姿はやはり神々しかった。

今観ても充分スマートでカッコいいと

5月24日、『RCサクセション AT BUDOHKAN』 (ユニバーサル ミュージック)を観る。本作はRCサクセションの第一回目となる日本武道館公演の模様を収めたもの。81年12月24日のこのステージは翌年フジテレビで『愛しあってるかい? RC at 武道館』という一時間の特番として放映された。番組では冒頭に「あなたは愛しあっていますか」「愛しあっている」「愛しあっていない」「よくわからない」などと国勢調査のパロディのようなキャッチが施されお茶の間受けの真逆を狙った感があった。大人がポカンとする痴態を演じればそれがロックになった時代の気分はあったにせよRCサクセションの面々はまだ中学生の私にはけっこうな大人であり当初はそれが異様にも思えた。中学時代に誰しも撮りためる自室でモデルガンを構えてたり駐車場で他人のバイクに股がってたりする青春の痴態写真の私版はどれも清志郎気取りの自前メイクでもだえている。これと同じ物が今も郷里の同級生のアルバムに一枚や二枚残っていると思うと裸足で夜の街を駆けて行きたくなる。が、RCの最盛期を収めた本作に向き合うことは決していたたまれない訳ではない。今観ても充分スマートでカッコいいとあらためて思う。ホーンセクションのブルーデイホーンズにせよおじさんバンドのRCを更におじさんがバックアップしているように当時は感じたが今よく観れば皆キレキレの青年であった。前年サントラに参加している映画『翔んだカップル』は不動産屋の失策で一軒家にダブルブッキングされた高校生の男女の同棲劇。大人になるまで待てないような痴態の限りを子供のうちから見せつけるどぎつい戦略はそれでも案外カレッジフォーク向きにお行儀よく受け入れられた。RCやキティフィルムに影響された当時の若い男女は案外お坊っちゃんお嬢ちゃんだったのだと本作の観客席を観て気づく。薬師丸ひろ子のファンって表面的には突っぱってても何だか変、じゃなくて何だかいい連中だったなと。RCサクセションは本来カレッジフォークに位置付けても問題ないのではないか。ヴィレッジ・シンガーズの特番を組んでるつもりで制作に携わっていたスタッフも局内にはいたのではないか。当時親交のあったアナーキーはもっと大人に聴いてもらいたい、21の俺達の作った歌をなんで同じくらいの年の奴が聴こうとしないのかと悩みあぐねていたようだったがRCはこの時点では同窓会なぞ裸足で逃げ出したい我が世の春であったよう。

70年代初めに百花繚乱の盛り上がりを

5月20日、隔週刊『円谷プロ特撮ドラマDVDコレクションvol.22「ミラーマン」第16話 人形怪獣キンダーを追え!』(ディアゴスティーニ) を観る。監督、東絛昭平。70年代初めに百花繚乱の盛り上がりを見せた特撮ヒーロードラマの中でも特別な存在だった気がするミラーマンを再検証しようかと。70年代半ばには筒井康隆が『ミラーマンの時間』なるジュニアSF小説を書いているし90年代初めには町田康がアルバム『腹ふり』の中にずばり『ミラーマン』なる自作詩による曲を収録している。昨今ではスズキアルトという自家用車の現行モデルのデザインがミラーマンの造形に酷似しているとこれは私が勝手に思った。それほどまで後年に影響を与えるミラーマンのどこが特別なのか。今回観直して気づいた点はやたらと暗い全体のムード。実際特撮シーンや格闘シーンに夜設定が多く画面は不鮮明だが。それ以上に出演者の新劇、時代劇調の重厚すぎる演技が暗さに拍車をかけている。頼みの綱の主人公、鏡京太郎を演じる石田信之までもが暗い。そもそも青春ドラマの明るく快活な主人公の敵役を得意とするサブキャラ体質の石田信之を起用する点からして作品自体がダークホース的存在なのだ。が、ダークだからといっておろそかにしてはいけない悪の人物設定がどうも乱雑で理解に苦しむ。『ウルトラセブン』のように侵略する側がどこから来て何を目的とするのか説明しないし犯行声明も取引めいた交渉も持ちかけない。何やら気分で要人を襲って失敗するとやけっぱちで総攻撃を仕掛けるような。窓口に交渉人を差し向けることもなければ誰が侵略側のリーダーなのかもはっきりしない。だが本作は『ウルトラマン』の脚本家、金城哲夫が3年間暖めて実現したとっておきの企画。恐らく侵略側の不鮮明で無目的とも思えるダークな動向も狙いなのだ。沖縄出身の金城哲夫は自身の脚本に日米関係、基地問題へのメッセージを再三込めてきた。『ミラーマン』においても金城は就学児童向きの紙芝居的な発信元から聞き捨てならない過激な政治的メッセージを放つつもりだったはず。が、フジテレビ系の特撮ヒーローは変身願いますといちいち上層部に懇願しないと変身できない『スペクトルマン』をはじめ所詮は宮仕えなのだ。ヒーローが宮仕えじゃなくなったら大変なことになるじゃないかとは私も思う。思うが特撮ブーム自体がもう直に飽和することぐらいわかっていたはずの金城哲夫だけの未許可版『ミラーマン』があったように思える。

本作ではこの田中眞紀子ギャグが定番

5月14日、町田康 著『猫のよびごえ』(講談社文庫) を読む。04年から刊行されてきた著者の猫エッセイも13年に終了しこの度文庫化されたこれが本当の最終巻。前作『猫とあほんだら』のあとがき始めに「伊豆半島で毎日、猫と遊んで暮らしている。というときわめて気楽な人生のように聞こえるが、実際のところは・・・きわめて気楽な人生である」とあった。が、もうそれも終わりというかもうこんな気楽な人生を報告し続けるのは後ろめたいような厳しい世相を予見しての幕引きかもしれない。拾い猫やもらい猫ばかりを細心の注意とケアで多頭飼いする町田家は猫界の素人の私には猫界の完璧な玄人に見える。が、それでもわずかの不注意から瀕死の猫を救えなかった後悔と懺悔が本作には記される。佐野洋子のエッセイ集に『私の猫たち許してほしい』という表題があったが愛猫家は皆同様の背徳感に陥るよう。「そしたら怒りよった。誰が?自分をママだと思っているシャンティーである。相変わらず、ファックスのうえで蛇のような、どこか田中眞紀子衆議院議員に似た眼差しでこの成り行きを見守っていたシャンティーは」とのくだりにはつい笑ったが。本作ではこの田中眞紀子ギャグが定番として散りばめられる。そもそも和猫というものは皆田中眞紀子のようなお呼び眼をしている。田中眞紀子とその時代の訪れも著者は予見しているのか。田中角栄とその時代は現在あちこちで回顧されているが。現在の高級ブチャ猫ブームが大衆和猫ブームへ路線変更する頃にあるいは田中眞紀子の時代も到来するのかもしれない。私が個人的に感じの悪いおばはんだなと感想を持つパートタイマーの多い某コンビニエンスの雑誌棚では現在角栄本とブチャ猫本を大プッシュしている。その点を私は個人的に警戒している。もしや田中眞紀子の復活劇のシナリオは完成し本読み立ち稽古の段階にあるのではないか。やるやると騒ぎたて結局やらなかった復活劇といえばニコラス・ケイジの『スーパーマン』と高嶋政伸の『若大将シリーズ』がある。ニコラス・ケイジの『スーパーマン』なぞやれば最高に笑えたかもしれない。が、やってしまえばもう後が続かないばかりかそれまでのシリーズ全体の威厳も水の泡である。そこのところのボーダーを迂闊に先走る制作者はハリウッドよりも邦画界に多いと思う。猫エッセイというジャンル全体の大衆化、卑俗化を先読みしスノッブなままに幕を引いた著者の英断にシャポウを脱いでおきたい。