わんやさんなら昔馴染みである

 劇団時代の話をなぜ書かんの?恥ずかしい訳かやっぱりといった風の変な挑発をエイチから私は受けて考え込んでいる。そうなんである。私は今から丁度10年前に横浜市立大の劇研を母体としたサラリーマン劇団、百万$劇場に所属していたんである。約二年間の役者生活を共にした仲間の中には今も表舞台、裏舞台で活躍する人々もいる。劇団ゴキブリコンビナートの主宰者Drエクアドル氏、ロッキング・オン編集部員になった林陽子氏、武富士のCFで当時から活躍中だったダンス指導の石川由美子先生(と、当時私たちは呼んでいた)などザッと思い浮かべても案外スゴイもんである。私など小劇場の事情には今じゃ全くうといので私の知らない所であの頃の仲間がいまやその筋では期待のニューカマーという事も起きていそうである。

 と、ここまで書いて私は気づいた。エイチがこれから私に書かせようとしているのは私個人のつまらぬ苦労話よりも前述した今も赤丸付きの出世組の当時のエピソードに違いないのである。ゴキコンのヒストリー本なんて本当にサブカル系の出版社から出るかもしれない。エイチは私をビートルズになれなかった男のように仕立て上げようというのか。が、確かにエクアドル氏と私はあの頃同じ劇団で共に活動していたけれど厳密にはそれは大間違いである。

 私が以前江戸川橋近くの印刷所で日雇いのアルバイトに通っていた頃の話をしよう。そこには私と同世代のその日暮しのヘビメタ青年が居た。彼は自分はあのヨシキにジュースを買いに行かせた男だと酒が入れば息巻いていた。これはつまり自身のバンドがライブハウスで演奏した際に何か必要な物があれば自分が買って参りますがと楽屋に現われたパシリ君は、やがてインディーデビューしメジャー展開後は全国区のカリスマバンドのリーダーとなったかも知れぬが君の関わったパシリ君というのは別人と言っていいんじゃないのと思うのである。ライブハウスのパシリ君だった時の彼は誰のジュースでも一走り買いに行ってくれただろうが、今のヨシキは誰のジュースも買いに行く筋合いは無いのである。同様に私が今ゴキコンの楽屋に闖入して「エクアドル居るゥ?」などと軽口叩いても劇団員につまみ出されるだけである。当然なのだ。私はエクアドル氏とは何の関わりももっていないのだから。

 私が知っているのはわんやさんである。漫才師の瀬戸わんやに激似なので劇団員からわんやさんの愛称で親しまれていたあの彼である。彼はその後オメシャンと名を変え自分の劇団を旗揚げし、今はDrエクアドルと名乗り、小劇場界を震撼させ続けているらしい。私はその後の彼とは無縁の男なのだ。   が、わんやさんのことを想い出すと懐かしさで胸がいっぱいである。ビラ配りの帰りにわんやさんと私は新宿で映画を観るかということになり、コーエン兄弟の「バートン・フィンク」を途中から観たのだ。「途中から観て頭の中でつなげるのかい?」とわんやさんが問うので私がうなづくと、かれはなるほどねといった表情でチケット窓口に向かった。勿論互いに極貧丸出しの着たきり雀でチケット代もお菓子もコーヒーもすっぱり割カンであった。スランプに陥った劇作家が逃げ込んだグランドホテルで奇妙なデブ男としばし友情を暖め互いのパッとしない身の上を語り合う。浮かばれないのは俺だけじゃねえやと少しだけ心の荷が軽くなった劇作家がその晩は眠りにつく。と、ホテルの廊下が騒々しい。何の騒ぎかとのぞいて見ればさっきまで自分としみじみ話し込んでいたデブ男が暴れているのだ。ホテル中に火を放ちショットガンを乱射しながら「殺す!手前ェら皆ブッ殺す!」と。映画館を出て私とわんやさんはしばし言葉につまっていた。私のほうが「もっと何かあると思ったね。」と切り出した。途中入場してしばらくするとデブ男が大暴れのシーンに入ったので私はその前のシーンにもっと何かあると思ったのである。殺人鬼となったデブ男が唯一見逃してやった劇作家。この二人の間にはきっと「何か熱い心の交流がさ」と私が言うとわんやさんは「あ、熱い心の交流?!」と笑った。わんやさんのことでいつも私が思い出すのはその時の会話である。それと最後に分かれた山手線の中で彼が少しむずがゆい様子で「ねえ、あの劇団でしか演らないの?」と問いかけた時が忘れられない。もしかするとその後の激動の青写真の中に当時は私も加えてやろうかと思っていてくれたのかも知れないのである。

 なんだか私もヨシキにジュースを買いに生かせた男と変わらない能書きをタレ始めてしまった。とにかくわんやさんは、練習帰りによその劇団からビニール傘をパクってすぐ見つかり黙って差し出すなどしなければ素敵な男だったし今の彼も私は応援している。わんやさんのことは懐かしいしDrエクアドルの不気味な才能も体調次第でまた確認してみたい。

 今、そんな気持ちです。