この人が恩人ならあの人は神様という

1月27日、橋本治 著『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマ―新書)を読む。本書は作家の橋本治が05年に「敬語とはいったい何か」をひもといたもの。昭和が終わる頃、皇室関連の特別番組で森口博子が変な敬語を使わないか視聴者はヒヤヒヤした。が、何も問題は起きなかったし森口博子は今結構エライ。学習室で机の上に飲料を置くだけで注意される図書館と中味を飲んでも何も言わない図書館がある。どちらでも好きな方を選べばいいのだが選べない場合もある。口のきき方ひとつで何をされるかわからない世界は確かにある。そんな世界に気がつけば立っていた時のため正しい敬語は必要なのだ。「目上の人ってどんな人?」の章では「遠山の金さん」を観ればわかるようにえらくない人はえらい人の顔を見てはいけないのが敬語的な決まりごとだと著者は語る。私はなぜかピーター・バラカンのラジオ番組ではラジオネーム禁止という決まりごとを思い出した。別に悪いことしてないでしょということなのだろう。私個人が性質的に悪いと感じるのは自分で考えたたけし軍団のような筆名であちこちに投書する人物。神出鬼没の大泥棒みたいなスタンスが苦手でバンクシーも苦手。ああいうのは胸がすっとするという人が十人に一人もいなくなったらやめてしまうであろう点も不満。老夫婦が経営する個人商店のシャッターにスプレーアートを試みる若者とそう変わらないだろうと。「敬語ができあがった時代」の章では偉さのランキングでいえば第五位のあなたが一位の人と話す時にはすぐ近くにいる三位の人にも敬語を忘れてはいけないど著者は忠告する。「怒られたあなたはへたをすると罰せられるかもしれません」という一行が重い。この人が恩人ならあの人は神様という例はどんな世界にもある。が、そのことにどこまで本気になるかは一対一の肌合いによると私には思える。すぐに口のきき方を知らないなどと本気で怒る人物は三位以下の方が圧倒的に多いよう。「正しく使うとへんになる敬語」の章では「もうわかったと思いますが、敬語というのは、古い時代の言葉なんです。だから、これをちゃんと正しく使いすぎると、時代劇になってしまうのです」と著者は説く。ここは時代劇でいきましょうと思っている同士でなければどうしようもなく空しいやりとりになることを肌で感じる時もある。おやすみの所申し訳ありませんなどとこちらのスタミナ切れを狙ったセールス電話にも適切な敬語はあるのか。だからそこは「テキトーに使え」というのが著者からの提言。