湯上りの神代辰巳が私の粋である

 金も余暇にも縁が無い。MEGUMIのような若ピチなガールフレンドにもまず縁が無い私にも夏のバカンスは必要。貧乏なりに小忙しいなりにも何か愉しみを探してみよう。もう一度生きてみよう。そうした前向きな気持ちだけはきっとMEGUMIだってその意気ですよとポンと肩を叩いてくれそうな気がする。その際あのど爆乳が私の背中にもぞもぞと触れる事は充分予測できる。もう一度生きてみよう。書きたいものを書いてみよう。いずれはMEGUMIの座付作家にだってなれるかも。深夜放送のプースの片隅でくすくす笑う男の役が回ってくるかも。その日を信じて前向きに考え出した私のこの夏のバカンスが“湯上りの神代辰巳ツアー”である。まず都電荒川線東池袋まで出る。次に有楽町線で月島まで出る。したら月島商店街にある銭湯マニアには有名な某公衆浴場で一浴びして再び歩いて銀座まで。らあめん時計台でいつもの塩らあめんにニンニクとしょうがをMAXぶち込んで一気にいただくとそのまま吸い寄せられるように地下の銀座シネパトスへ。

  今月は神代辰巳特集である。湯上りの神代辰巳とはまた粋な楽しみでげすねと一人悦に入って私は外に出た。時刻は夕方6時であった。夏の夕暮れはセンチメンタルである。日が長いだけにもっと遊ぼうじゃないかと子供心には思うものである。遊びたいだけ遊んでいつの間にか生傷だらけになった体を暑い湯にひたして悲鳴を上げてた少年時代思い出してジンと来るんだよ(照れて)。

 で、荒川線に揺られ有楽町線に乗り継いで月島に出たときは外はもう暗かった。夜の月島商店街は10年振りくらいに歩く。そのためか銭湯マニアには有名な某公衆浴場にはたどり着けなかったのである。しかし銀座と目と鼻の先にあってもこの辺りはやはり下町である。ちょっと奥まった路地をウネウネ歩いているうちに銭湯の一件や二件と私は珍しく食い下がった。そして見つけたのだ。寿湯なるシックな昭和40年代調の銭湯を。通りに面した下駄箱に靴を預けて受付へ。浴場の中にはやはりあの時代の空気があった。まずカマボコ式に高い屋根。水色の内壁。熱気浴室。U字型の椅子は勿論出入口横にピラミッドを組んでいる。そしてケロリンケロリンのロゴ入りの黄色いオケも今の内にパクる人は早くパクっとかないと。いずれ消滅してしまうのだろう何の前置きもなくあっさりと。ダバダバダとルパン三世のテーマをハミングしつつシャワーを浴びる。もう中年太りと呼ばれる年だ。そういう時だけベストテン時代のジュリーやスターリン全盛時のミチロウに自分をダブらせて悩まない。まだまだあか何か尻の筋肉に力をこめる。尻で割り箸を割ったりしないが気合いは入る。その気合いにまかせて私は銀座へ向かった。らあめん時計台で塩らあめんも食った。シネパトスにも吸い寄せられた。

 神代辰巳特集、本日は「赤線玉の井 ぬけられます」(1974年9月21日公開)であった。赤線末期、東京玉の井のその種の店で働く女。店を出て地道な結婚生活を送り始めた女、女につくす客、女を食い物にする情夫らの生き様を描いた作品である。劇中に滝田ゆうのイラストがはさまる。物語の段落ごとにイラストがはさまるというのもこの時代に流行した演出だが今ではどうだろう。それはともかくオープニングからタイトルバックまでの映像のカッコ良さには舌を巻く。ストップモーションと音声のインアウトの独特の間。神代ワールドの住人たちもまた独特の顔をしてえいるというか独特になってしまうのだろう。ウッチャンナンチャンのナンチャンが昔ギャグで演じた若き日の蟹江敬三。普通じゃない。理想の上司などとはとんでもない犯罪予備軍的キャラクターで勝負し続けていた時代の、まさにど真ん中である。チンヒラ風情の自分に心底つくしてくれる宮下順子を完全にモノ扱いする濡れ場が圧巻である。クソ面白くもなさげに両足の指で情人の乳房をこねくり回し蹴り飛ばす。昔の男はよく女をこのようにモノ化したがそれは映画の中だけの事か。私なぞは幼少期に母親が父親にモノ化されている場面に何度も出くわしているが。しかしこの頃の蟹江敬三は誉めようもなくギラギラし過ぎた凄い役者である。

 神代映画で圧倒されるのは不気味に自然なキャメラワークである。特に便所のシーンだ。撮影に私用しているのは大人一人がかがみ込めばいっぱいの普通の便所である。その普通の便所に役者がのそりと現われかがみ込んで用を足す姿をカット割り無しで何ちゅ事なく一気にみせる。これは一体どうやって撮っているのか。作品によってはその狭い便所にもう一人役者が闖入して会話をはじめたり絡み合ったりし始める。その時キャメラの向こう側には撮影師と監督は居るのか。キャメラをどう入れたかも首をひねる空間に神代辰巳と姫田真左久は居たのか。私は居たと思うのだ。どうやってそんな狭い場所にもぐり込めたのですかと問いかけても二人は答えてくれないと思うのだ。映画作りに関わる人間なら己自身で考えるべきところである。私はあの狭い便所はキャメラのフレームを外れた箇所から大道具の兄ちゃんが猛烈な勢いで解体していると思う。その隙間に大の男の二人が体を密着させてねじ込み撮影していると思うのだ。アフレコの強みである。現場は戦場さながらでも仕上がりはごくごく平凡な日常の一コマなどとは本物の粋である。風呂嫌いの神代辰巳は浮浪者然とした粋の頂点である。わかったかど爆乳。