俺はちっともカッコ良くないんである

 この原稿がホームページ上に起立するのがいつになるのか私は知らぬがこうして机に向かっている今は12月9日である。ジョン・レノンの命日の翌日にあたる日でオノ・ヨーコさんもそのため来日しジョン・レノンミュージアムを訪ねるらしい。ジョンとヨーコが出逢ったとされる66年生まれの私は所謂ビートル・ゼネレーションからはやや外れる。ビートル・ゼネレーションなどこの国に無かったし当時のファンは皆肩身の狭い思いをしたもんだと言う意見はこの際無視して。その代わりに自分はチェッカーズ世代でもサリー世代でも引き受けるとして。ことによっては息っ子倶楽部世代呼ばわりされても明るくうなづくとして。ビートル・ゼネレーション世代からはやや外れる私にとって12月8日は消せるものなら消し去りたい1日だと吐き捨てられるものでもない。ビートル達は憧れの兄貴というより親戚の伯父さんくらいの距離感で私の周りに存在していた。ジョン・レノンショックといった形容も当時ピンと来なかった。夕方のニュースで「ロックンロール」のプロモ映像が流され事の次第が伝えられてもポカンとしていた気がする。近い時期に林家三平の死亡ニュースを知った時のほうがショックであった。

 確か「独占!おとなの時間」を観ようと真っ黒なコーヒーを友人と回し飲みしていた記憶と重なるので土曜の深夜ではなかったか。ジョンの死の当日に何が起きたのかすでに中学生だった割にあまり覚えてないのだ。ただ何となく覚えているのはその日に甲斐バンドはテレビ中継つきのホールコンサートを行ったはずということだ。NHKの日曜の夕方くらいに当時ぽつぽつオンエアーされていた邦楽、洋楽のライブ中継を私は楽しみにしていた。当時人気絶頂とも言えた甲斐バンドの出演時にもチャンネルを合わせていた。

 「きんぽうげ」から始まる定番セットのライブを弾けもしないのに生ギターを抱きながら観ていた。ライブは一端終了しアンコールの拍手が鳴り止まぬ舞台から一端引き上げたメンバーをカメラが追う。バックステージでやれやれと一息入れるメンバー。が、急に顔色を変えて新聞を覗き込む。ジョン・レノンの死亡記事である。ガックリとうなだれてやにわに胸元で十字を切る甲斐よしひろ。他のメンバーも沈痛な表情である。が、やがて皆意を決してアンコールを求める観客の元へ向かっていく。と、いった映像を当時中学生の私は感動しながら観ていた。が、今ではあれはかなりの部分演出ではと気付くのだ。今頃気付いても遅い。何が遅いのかも良く分からんのだが。つまりあの新聞をメンバーが広げた時刻はライブが一端終了した夜の9時かそこらである。死亡記事は有閑に間に合っているのだ。多分リハーサルを終えて楽屋で店屋物をパクパクやっていた甲斐バンドのすぐそばにあの新聞はあったのである。テレビ中継にその新聞記事を小道具に使用するかしないか。決めたのは制作側だったとして甲斐バンドは役者を引き受けたのだ。

 そのことに中学生の私が気付いたらどうしただろうか。多分どうもしなかっただろう。当時甲斐バンドのファンは竹本孝之のファン同様にそうした茶々に敏感で過激だったからだ。甲斐よしひろのタレント本「荒馬のように」の宣伝コピー“俺はちっともカッコ良くない”に当時の私は憎いことをまたとヒゲも生えぬアゴをなで回したものだ。が、今ではちっともカッコ良くないんだという甲斐よしひろの気持ちが少しだけ理解できるのだ。ジョン・レノンの死亡記事にガックリうなだれてと要求されればうなだれる。で、その後で新聞を苦々しく丸めて投げ捨て舞台に走り出すまでも見事に演じきった。そうして中学生の私をそうだとも!と何がそうなのか良くわからぬハイテンションで反応させた。そのようなファンの反応と背中を押されてそれに応える自分を見つめて甲斐はつくづく思ったのか。俺はちっともカッコ良くないと。などと実はウロ覚えの記憶を頼りにこんな大御所のイメージに関わることを書いてる自分が怖くなった。俺はちっとも……は松山千春の「足寄より」のコピーだったかもしれない。余計恐ろしいと。少しは自分の書く事に責任を持てと。来年からそうしたいのだけど。来年はより良いゲッテングベターな年になりますように。どちらさまもメリークリスマス。

 この原稿がホームページ上に起立するのがいつになるのか私は知らぬがこうして机に向かっている今は12月9日である。ジョン・レノンの命日の翌日にあたる日でオノ・ヨーコさんもそのため来日しジョン・レノンミュージアムを訪ねるらしい。ジョンとヨーコが出逢ったとされる66年生まれの私は所謂ビートル・ゼネレーションからはやや外れる。ビートル・ゼネレーションなどこの国に無かったし当時のファンは皆肩身の狭い思いをしたもんだと言う意見はこの際無視して。その代わりに自分はチェッカーズ世代でもサリー世代でも引き受けるとして。ことによっては息っ子倶楽部世代呼ばわりされても明るくうなづくとして。ビートル・ゼネレーション世代からはやや外れる私にとって12月8日は消せるものなら消し去りたい1日だと吐き捨てられるものでもない。ビートル達は憧れの兄貴というより親戚の伯父さんくらいの距離感で私の周りに存在していた。ジョン・レノンショックといった形容も当時ピンと来なかった。夕方のニュースで「ロックンロール」のプロモ映像が流され事の次第が伝えられてもポカンとしていた気がする。近い時期に林家三平の死亡ニュースを知った時のほうがショックであった。

 確か「独占!おとなの時間」を観ようと真っ黒なコーヒーを友人と回し飲みしていた記憶と重なるので土曜の深夜ではなかったか。ジョンの死の当日に何が起きたのかすでに中学生だった割にあまり覚えてないのだ。ただ何となく覚えているのはその日に甲斐バンドはテレビ中継つきのホールコンサートを行ったはずということだ。NHKの日曜の夕方くらいに当時ぽつぽつオンエアーされていた邦楽、洋楽のライブ中継を私は楽しみにしていた。当時人気絶頂とも言えた甲斐バンドの出演時にもチャンネルを合わせていた。

 「きんぽうげ」から始まる定番セットのライブを弾けもしないのに生ギターを抱きながら観ていた。ライブは一端終了しアンコールの拍手が鳴り止まぬ舞台から一端引き上げたメンバーをカメラが追う。バックステージでやれやれと一息入れるメンバー。が、急に顔色を変えて新聞を覗き込む。ジョン・レノンの死亡記事である。ガックリとうなだれてやにわに胸元で十字を切る甲斐よしひろ。他のメンバーも沈痛な表情である。が、やがて皆意を決してアンコールを求める観客の元へ向かっていく。と、いった映像を当時中学生の私は感動しながら観ていた。が、今ではあれはかなりの部分演出ではと気付くのだ。今頃気付いても遅い。何が遅いのかも良く分からんのだが。つまりあの新聞をメンバーが広げた時刻はライブが一端終了した夜の9時かそこらである。死亡記事は有閑に間に合っているのだ。多分リハーサルを終えて楽屋で店屋物をパクパクやっていた甲斐バンドのすぐそばにあの新聞はあったのである。テレビ中継にその新聞記事を小道具に使用するかしないか。決めたのは制作側だったとして甲斐バンドは役者を引き受けたのだ。

 そのことに中学生の私が気付いたらどうしただろうか。多分どうもしなかっただろう。当時甲斐バンドのファンは竹本孝之のファン同様にそうした茶々に敏感で過激だったからだ。甲斐よしひろのタレント本「荒馬のように」の宣伝コピー“俺はちっともカッコ良くない”に当時の私は憎いことをまたとヒゲも生えぬアゴをなで回したものだ。が、今ではちっともカッコ良くないんだという甲斐よしひろの気持ちが少しだけ理解できるのだ。ジョン・レノンの死亡記事にガックリうなだれてと要求されればうなだれる。で、その後で新聞を苦々しく丸めて投げ捨て舞台に走り出すまでも見事に演じきった。そうして中学生の私をそうだとも!と何がそうなのか良くわからぬハイテンションで反応させた。そのようなファンの反応と背中を押されてそれに応える自分を見つめて甲斐はつくづく思ったのか。俺はちっともカッコ良くないと。などと実はウロ覚えの記憶を頼りにこんな大御所のイメージに関わることを書いてる自分が怖くなった。俺はちっとも……は松山千春の「足寄より」のコピーだったかもしれない。余計恐ろしいと。少しは自分の書く事に責任を持てと。来年からそうしたいのだけど。来年はより良いゲッテングベターな年になりますように。どちらさまもメリークリスマス。