下手に師匠と呼んだが最後である

 暮しぶりは貧乏学生時分のまんま気持ちはスクウェアー化す。最近じゃ古典落語が面白いですね。その後のヤッピー層の中で今静かなブームになりつつある昭和40年代の名人落語にはまってます。女郎買いの失敗談や貧乏人同志の小銭のムリシ合いなどといったストーリー設定のそれらの作品を楽しんでいる現代人達のほとんどはそんな俗界には普段足を踏み入れようとも思っていないし、縁もないことだろう。絵に描いた貧乏を実際体現している私も実はそういうネタはあまり楽しめない。ネタよりも演じる落語家の頭の中で行なわれているであろう様々な計算とかスリル感のようなものを想像するのが面白いのである。

 古今亭志ん生が動いてしゃべっている映像を私は未見であるが、写真とラジオ録音だけでも充分そうした楽しみ方はできる。ぞろっぱと呼ばれるくずし型の芸風で偶発性による面白さを重んじていた志ん生である。が、偶発性による面白さとは高座で中途半端なオカマキャラ振り回してれば生まれる訳では決してない。まず笑っちゃう人物像であること。見た目にどうしてもおかしい。声がやはりおかしい。話も勿論おかしいが、段々何言ってんだかわかんなくなって本人は全くそのことに気付いてないこと。痴呆症であること。くずし型の頂点である志ん生にはそれがあった。逆に古典をきれいそのまま保存しようとする守り型もいなければバランスがとれない。志ん生に憧れて門を叩いた弟子達も初めて覚えるネタは守り型の先輩落語家に稽古してもらっていたという。

 くずし型と守り型。しかし私の中にはあともうひとつ汚し型とも呼べる芸風がある気がするのだ。それは70年代後半から80年代始めまでの桂朝丸(現ざこば)のウィークエンダーにおけるレポートぶりである。あれはもう二度と電波に乗ることは無いだろう。レイプ事件のレポートで途中からレイプ犯に完全にのり移って「お、おおおとなしゅうせんかいコラァ」などとほてった顔から口泡飛ばしまくる語り。あげちゃいけない名人大賞。「ほんまに悪いやっちゃでこいつァ」と加害者の写真を床に叩きつけて激する朝丸に被害者の身内は決してよい感情を持たなかったであろう。公の場で今度は朝丸によって再度手ごめにされたような気持ちだったのではないか。「んで被害者のA子さんがこォの女子便所から出てきたところをこの男がオイコラァお前今小便してきたな、ほだらワイの小便入れたらァって、だらァーって」

 桂朝丸。これから落語がオシャレにブーム化する一方であのダーティーな話芸も復刻する動きのないことを祈る。