日本人ならラリルレロである

 武豊が乗ってもやっぱり駄目だったという駄馬中の駄馬ハルウララに私も少し興味がわいてしまった。競馬なぞ全く知らないのに。どうしてか日本人は駄馬的なものに弱いのではないか。日本人はラリルレロに弱いんでねと言ったのは大島渚である。それは映画のタイトルを決める際に、ラ行を使うと興行的当たりやすいという確かなデータが業界に生きているという話の中での発言であったが。ハルウララもその手を使ったのか知らん。ラリルレロがそもそも駄馬的ニュアンス含んではいないだろうか。駄馬のままいつまでも走らされ続ける宿命のようなものをハルウララには感じる。

 「春うらら」というニューミュージックの小ヒット曲も思い出す。歌手は忘れた。詞が印象に残っている。うららかな春の日にぼろアパートのこたつの中でまだそんなにゲンナリきてない男女が乳クリ合う四畳半ポルノフォークな世界。憧れました小学生の頃に「ぎんざNOW」で観て。そりゃ一日でも一分一秒でも早く大人になって乳クリ合いたい時ですから。その乳はどんな乳でもよかったのだが。

 高校時代の親友は私に当時真剣な眼差しで語った。俺は今まだ生の女の体を見ても触れてもいない。が、いつかその時が来た時その女の乳首がこーんなだったら自殺するかもしれないぜと。こーんなだったらといいながらその親友は、その松本は私のノートにCDシングルくらいの丸を描いた。私は松本の言いたいことはわかったが心の中では同調できなかった。私はCDシングル型を支持していたからである。見合いの条件に出すことすら今では思う。そんな私と松本が高校の三年間を大の仲良しとして過ごせたのも不思議なものである。今彼の手の届く所に彼の理想とする乳首はあるのであろうか。案外中年期に入り周囲のすすめで仕方なく見合い結婚した相手こそがCDシングル所持者だったりするのではないか。人生そんなものかも知れぬ。だから私の場合人前では梅しばみたいな乳首が好きそうな顔をしていたほうが良いのかも。すると今度は梅しば所持者が早く言ってよと貧乳ムキ出してハグってきたり。人生そんなものかも知れぬ。

 しかしそうして何をやっても踏んだり蹴ったりな人生を歩む者を世間の人々は意外や愛してくれるものであるらしい。ハルウララを見習って負け続けるのも男のロマンか。テリー・ファンクかあるいは。テリー・ファンクもう行使ってるじゃないか。私も使ってます。エイチも使ってやがる。カワセミロ書房か何か名乗ったら日本一駄目な古本屋として注目されたり。