あそこからあの場所からである

 私がいつものごとく利用する激安コーヒースタンドのトイレで最近起きた春の珍事についてでも?その朝も私はミックスサンドとブレンドコーヒーを注文していつものごとくいつもの席に着いた。ミックスサンドを食べきるとおもむろにブレンドコーヒーを一口すすりおもむろにトートバッグから文庫本を。その日は文春文庫の三島由紀夫著『行動学入門』を持参していた。正月ボケ防止に心身を引きしめようという狙いからであった。
 二月の初めにもなってまだ正月ボケかと失笑される諸兄もあろう。が、一月までは精神力で食い止めていたボケ状態の波がこの時期に押し寄せないとは限らない。ま、押し寄せて欲しい向きもなくもないが。流されて。私を深く埋めて。なんちゅこと考えつつ『行動学入門』を読みふけること三十分弱。やはりいつものごとく私はトイレに立つ。
 その激安コーヒースタンドのトイレは男女共用と女性専用の二通りあり、使用中は天井近くのランプが点灯するというよくある造りのものである。私は男女共用トイレの前に立ち、まず使用中のランプが点灯していないことを確認した。続いてノックを数回用心深く。次にドアノブに手をかけて手前に引く。開きかけたドアに何やら引っかかりを感じて手を止めた。ドアの隙間の向うに先客はいたのである。
 二十代後半の浪人生風の男。二十代後半で浪人とはどういう男か。キャイーン天野もしくはケンちゃんシリーズ初代ケンちゃん宮脇康之似のオタクだオタク。その男はカギのかかっていない男女共用トイレの中で下半身をむき出しにして床の上をはいずっていた。片手をドアノブにかけて「ちょっ、ちょっ、ちょっ」と苦笑いする姿に総毛立った私はその場を遁走したが。
 後で思うにあの男は一体何をしていたのであろう。カギのかかっていない男女共用トイレの床に半裸ではいつくばって一体何を。いつ誰が入ってくるかわからぬ密室で乳くり合うのが至上の楽しみである男女は少なくない。乳くり合う相手のいないオタク青年がせめて茶店の男女共用トイレで一人乳くりシミュレーションを楽しんでいたのかもしれない。
 今春でその長い歴史を閉じるという秋葉原交通博物館という施設がある。幸いにもまだ乳くり相手のあった青年期の私は交通博物館の映写室の休映時を利用して暗幕の中で乳くり合った。そうした場所が閉鎖されることに思う所がないでもない。恐らく閉館前に今一度はあの場所へついつい足を運んでしまうだろう。乳くり青年から性に飢えたおんぼろ中年に堕落せし私の途中下車駅はあそこだ。